272 死の哲学(13) 田辺先生は2度泣いた

ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 272
272 死の哲学(13) 田辺先生は2度泣いた

教え子が戦地に赴くとき。
妻の寿命が短いと宣告されたとき。
田辺元は2度、涙を見せた。
その場面に居合わせた上田泰治・京大名誉教授はこうスケッチしている。

●学生との別れ。
「昭和18年10月、京大楽友会館の一室で小さなパーティーが開かれた。哲学科の学生5,6名が学徒動員で戦地へいく壮行会である。テーブルには田辺先生の奥様の心づくしの白い菊が飾られた。当時副手だった私は小豆を探して大原の里を歩いたが求めることができず、代用品で羊羹めいたものをつくった。食べ物らしいものはまったくなかった。戦地に赴く者はみんな同じ言葉をいった。『我々は往く。往くことに心残りはない。ただこれからは田辺先生のご講義が聴けなくなることだけが残念でたまらない』」

「黙然と聞いておられた先生は言葉をつまらせ、嗚咽しながら『諸君の言葉は過分です。ご期待に添える様な講義をしてきたとは思えない。まったく相済まないと思います』と目をハンケチでぬぐった。先生の涙を初めて見た。
これより少し前の同年五月に先生は京大の全学生に〈死生〉と題して講演している。このときも悲壮感が漂っていたが、全体としては『決死の覚悟で国難に向かい、そこに生の意義を発見せよ』、という激励の趣きが勝っていた。それに比べこの日は『済まない』と涙する先生だった。
先生はこのとき、出征していく学生に奨める書物として歎異抄臨済録をあげられたことを思い出す。」

田辺はもともと東大理学部で数学や科学を専攻した。クールで論理的なイメージをもつが、けっこう情感の人だったらしい。
前回に紹介したマルクス主義についても、初めは反対だったのに、短期間にシンパシィを抱くようになった。国のために、と賛同した学徒動員についても、後悔が始まって懺悔への道程を歩きだしているのがわかる。

「昭和19年12月19日午前10時15分。、冬空は暗く重かった。田辺先生が『懺悔道』の題で最終講義。関西一円から先輩や多彩な教授たちが聴講に詰めかけている。私は先生に命じられてノートをとる。正午。先生は『昼時ですから食事に行かれる方はどうぞご自由に』とおっしゃられ、ご自分はそのまま講義を続けられた。終わったのは五時近い。
7時間近くも話されたことになる。窓はすでに黄昏の色が濃かった。気遣う私たちに『疲れてはおりませぬ。せいぜい四時間くらいと思っていました』と先生は逆に私たちを気遣われた。しかし、先生はこのころ足のしびれをしきりに訴えていた。私は先生の帰りのお伴をした。京大の正門にさしかかると、先生はいつものように帽子をとって門衛の会釈に答えた。先生は大学の門を出入りされるとき、必ず帽子に手をかけて門衛にあいさつされた。当時、このような教授ははたして何人いただろうか。
先生宅の玄関には奥様が座って待っておられ「ご苦労様でした」と頭を下げられた。」

59歳という年齢で7時間、ぶっ通しの講義は相当な負担だったろう。敗戦の9カ月程前になるのか。『懺悔道』という講演のタイトルからして学生を戦地に送った反省と懺悔のほどがうかがわれる。

●夫人の余命を宣告されたとき
「昭和23年秋、先生の奥様が結核で伏した。もともとの病弱のうえに北軽井沢の山荘での不自由な生活がたたったのであろう。友人の専門医を伴った。レントゲンも血沈検査もなしのまま診察に当たらねばならなかった。田辺先生は明確な見通しを求められた。専門医は『長いことはない、しかしここは健康地だから安静次第』というようなことを正直に述べた。先生は「そうですか」と短く言われた。すでに覚悟していたのであろう。音声や動作に動揺はなかった。ただ、目が一瞬天井に向けられた。辞去するとき、奥様は『田辺より一日だけ長生きできたら』と言われた。」

「その日がいつだったか、私は書きとめていないが、先生はあるとき、『家内が私を救ったのです』と言って声をつまらせた。天井を向いて口を固く結び、嗚咽をこらえられた。むせび泣く姿はこれが私にとって二回目だった。奥様が忍従の人であったというのは正しくない。先生にとって哲学が生命であったように、奥様にとって献身が生命であった。愛は献身である、という時代があったのである」

それにしても、哲学書の真ん中に著者の亡き奥さんが登場したり、「死の哲学」のきっかけはその亡き奥様だった、とかいうのはボクは初耳だ。本来の哲学の中身とは別にボクは好奇心をそそられる。
そういえば、上田京大名誉教授はこんなことも書き残している。
「昭和19年のいつごろだったか、先生から頼まれて友人と二人で先生宅の庭を掘り防空壕をつくっていた。そこへある学生が入って来て手伝いを申し出た。私たちは相当疲れていた。しかし、奥様は『およしになってください。あなたが掘った防空壕に田辺は入りませんから』と厳しい言葉で拒否された。ちょっと驚いた。その言葉の背後に先生の強烈な感情と意志を見た。あとで知ったことだが、その学生は多くの教授に会って画帳に一筆書いてもらう性癖があった。先生は哲学専攻の学生にあるまじきことと怒っていられたそうである。」

それにしても、この夫人の言動も激しすぎる、常軌を少し逸しているようにボクには思われる。次回も田辺元先生の夫婦仲について。(つづく)