271 死の哲学(12)現実社会の向上をめざす宗教哲学

ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 271
271 死の哲学(12)現実社会の向上をめざす宗教哲学

 田辺元という哲学者は、西田幾太郎に比べて、思想が浅い、宗教性が薄い、たびたび思想を変えて一貫性がない、などと批判される。西田とのぎくしゃくはのちに触れるとして、これらの批判はひとつには田辺の、社会への強い関心と責任感にあったようだ。時代の動き、思潮、人々との接点に敏感だったのだ。

末木文美士・東大名誉教はこう書いている。
「西田幾太郎の戦争協力が、最終的に宗教に逃げ込むことで歴史・文化を相対化するという二枚腰をもちえたのに対して、田辺はむしろ社会への強い責任感のゆえに、戦争協力にのめり込むことになり、その行き詰まりと苦悩の中から懺悔道としての哲学に結実することになった。」
田辺自身は「戦争末期における思想者としての私の、行き詰まりの苦悩と無力の絶望とを告白するとともに、現実との対決に行き詰まった私の思想が、自己の無力を懺悔して自らを放棄することにより…」などと書いている。

彼は教授として文学部長として多くの教え子・学生を戦地におくった。その反省がストレートに懺悔道につながり、さらに妻の死がひきがねになり、「死の哲学」に展開していった。(ただし、懺悔したのは敗戦後、国民一億総懺悔といわれた、あれと同じではない。田辺の懺悔の思索はすでに戦争末期に始まり、執筆されつつあった、と教え子は強調している。)

西田幾太郎が現実生活のほかに哲学・宗教という不変の隠れ家をもっていたのに比べ、田辺元はもろに現実の激流にぶつかった。昭和初期、若い哲学関係者の間で問題になり始めていたマルクス主義をめぐる田辺の思い出を西谷啓治・京大名誉教授は記している。

ある日、田辺と西谷はマルクス主義について語ったことがある。田辺は素朴な反対論を話した。これに対し西谷はマルクス主義の立場から当然考えられる答えを一つ一つ出した。田辺は「それならなぜ君はマルキシズムにならないのか」と少しなじるように詰めた。西谷は宗教、国家という観点からマルクス主義に同意できないことを説明した。
それからしばらくあとで、同級の戸坂潤と田辺宅をたずねて今度は戸坂と西谷がマルクス論争をした。戸坂は、のちに反戦主義者として検挙され獄死したが、すでにこのころからはっきりマルクス主義に踏み切っていた。議論は戸坂がマルクス主義の立場から、西谷は反対派の立場だった。
「先生はずっと黙って聞いておられるだけだったが、われわれが議論疲れでやめたとき、『僕はどうも戸坂君の方に傾く』というふうなことを言われた。ちょっと驚いたが、あとから考えると、先生が抱いていられた社会革新への気持ちというものは、この間に先生の心の中ではっきり定着したのではないかと思う」

田辺は当時最高峰の哲学者西田幾太郎の後継として教壇に立ち、その講義には内外から多くの聴講者が詰めかけた。大教室はいつも満員だったが、それぞれが相反する思想と信念を持ち、また自分たちの立場から講義にケチをつけようと待ちかまえている人が少なくなかった。

もうひとつ、激動する世界の現実に哲学はどう対応し、解決できるのかという難問がある。現実社会の課題を哲学という最も原理的な形で答えを示さねばならない。宗教とか歴史とか文化に逃避せず、現実社会にこだわる分、田辺は一層重い荷を背負っていたと西谷は書く。

末木教授によれば、田辺は「現実そのものへの実践」をつねに問題とし、ともすれば、社会との通路を遮断しようとするもろもろの宗教哲学と一線を画した。一見、思想がくるくる変わるように見えるが、それはこうした問題意識が貫かれているためだ。マルクス主義への関心もずっと持ち続け、それに対抗するものとして、社会民主主義(革命的共産主義に対して、議会を通じて社会の変革を実現していこうとする改良主義)の立場を積極的に主張もした。「死の哲学」もまたこの問題意識が含まれているという。

269回に書いたように、死者との交流はスーパースター同士に限らず、市井の名もなき人々の間に実存協同の愛の輪は広がって行くという田辺の考え方だ。ブログのその個所だけを再録しておく。
『われわれはだれもが人と出会い、死別を経験する。そういう意味でだれもが死者との実存協同が可能なのだ。キリストと神のようなスーパースターでなくても市井の人々が次々と粒子のように実存協同の助け合いと愛の輪を広げていくことができる。』(つづく)