ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 270

ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 270
270 死の哲学(11)ハイデガーと並ぶ亡き妻

 いかめしい、格調高い哲学書の、それも最大の山場で、ふいに「死んだ妻」の話が出てくる。「死の哲学」の主役は田辺元の亡き妻だという。まるで小説のようだ。これには驚いた。

たとえばーー、上田閑照・京大名誉教授はつぎのように書く。
「最晩年の田辺にとって哲学上の緊急関心事はハイデガーとの徹底的対決であったが、思索の最極処へと田辺を衝迫したものとしてはやはりちよ夫人の死があったと言えるであろう」。
ここでは亡き奥さんが二十世紀最大の哲学者ハイデガーと並べられている。
また、「夫人の逝去は単なる私事ではない。…田辺はさらに人間にとってたまたま起こることでない最も親しい人の死という人間存在の一つの根本事実(限界状況、あるいは仏教の言葉でいえば愛別離苦)」…。

つぎに、末木文美士・東大名誉教授。
「死の哲学はまさしく死者との交流をはじめて哲学的に確立した画期的な成果であるが…田辺は妻を亡くし『小生にとっても、死せる妻は復活してつねに小生の内に生きて居ります』(野上弥生子宛て書簡)という経験の中から死者の復活による死者との実存協同という思想を展開することになった」

実際に田辺元に教わり家族ぐるみの付き合いをした西谷啓治・京大名誉教授は日常的なまなざしで。
「御夫人は御存じかと思いますが、多年にわたって献身的に先生に尽くされて、北軽井沢の山の中で病気になられ、長い間寝たきりでおられたわけですが、その御夫人が亡くなった後で、先生がひとり遺骨とともに暮らしておられた間に、その追憶のなかから、次第に強い実在感をもって、亡くなられた方がありありと浮かび出て来たということがあるのではないか。」
そして夫人の死は「〈幽明境を異にす〉という言葉がありますが、幽界と明界との境がだんだん無くなって、死んだものと生きたものとの間を隔てている暗いかべが次第に透明になる。死んだ人がなにか非常な現実性をもって生者の心に現前してくる。同時に、生きている者の現存在がその死者の現存している次元にまで延び入ってゆくといいますか、その次元に参加してゆくといいますか、要するに、死んでいる者と生きている者との境,幽明の境というものがだんだん薄らいで来て、死者の世界が生者の世界に入り交じってくる。なにかそういうふうなことが想像されるのであります。」と続く。
こんなふうに「死の哲学」は構築されていくのだろうか。

堅苦しい言葉ならともかく、西谷先生の文章は平易な普段着のタッチである。だからこそ、〈先生がひとり遺骨とともに暮らしておられた間に、その追憶のなかから、次第に強い実在感を…〉とか、〈死んだものと生きたものとの間を隔てている暗いかべが次第に透明になる。死んだ人がなにか非常な現実性をもって生者の心に…〉とか、〈要するに、死んでいる者と生きている者との境,幽明の境というものがだんだん薄らいで来て、死者の世界が生者の世界に入り交じってくる。…〉のような表現に出会うと、どぎまぎしてしまう。

何度も何度も読み返し、目をつむり、考えてみよう。これらの先生は占い師ではない、現代の碩学といわれる人たちの証言である。すぐれた学者の解説である。ボクはわからねばならない。わかるはずである。理解して当然のはずである。――もっとも、「知るより信じること」という言葉もあるが。
いずれにせよ、じっくり考えてみよう。だって、もし、こういう哲学があるのであれば、余命わずかにしても、ボクのこれからの老後人生はずいぶん心安らかになる。亡き親への不幸の数々もこれから挽回できるし、あの世へいってもまたこの世へカムバックできる。この世のみなさんたちと実存協同も可能だ。

先に進もう。
生前の田辺元と、ちよ夫人のナマの姿を教え子たちのスケッチからーー。
「先生のお宅とも近く、奥さんは家内と気が合ったらしくてよく家に来られ、『あ、おしゃべりしすぎた』と飛んで帰られた。先生の帰宅時間が判で押したように決まっていたからである。ステッキをもっての散歩のコースと時間もきっちり決まっていて、まるでカントのようであった。こちらからも家内や子供たちも先生のお宅に押しかけてお子さんのいない先生に迷惑がられるのでないかと心配したが、子供たちに怖がられていることを御存じの先生は、二階の書斎から降りてきて、『いったい、何を騒いでんじゃ』とそっと覗いてみられたりしたらしい。」――西谷啓治・京大名誉教授

「大学卒業後二、三年して同僚の杉君はドイツに留学したが、かの地に着くと彼は胸を病んでサナトリウムに療養することになった。途方にくれた私は先生にそのことを申し上げて、私たち友人のとるべき措置について先生のご意見をうかがったが、先生は私たちにはなにもおっしゃらずに、さっそく金30円を杉君に送られたのである。当時の金額において、とくに学者にとって、それがいかに大金であったかは、いうまでもあるまい。杉君はのちに亡くなったが、このとき『世界的な学者である先生のお心を私事でわずらわすとは何事か』と私を厳しく非難した。」
「最後に京都を去られるとき、私を呼んで『どうも君はひとに何となく堅苦しい感じを与える人間だ。まじめということも悪くないが、もっとひとに窮屈な思いをさせぬ人間にならぬといけない。じつはこれは君に言うよりも私自身がいつも自分に言い聞かせていることだ。君にも私に似た性格があるようにおもうので、別れの言葉として言っておく』と諭された。」――澤潟久敬・大阪大名誉教授

*おもに『田辺元 思想と回想』から抜粋した。肩書はいずれも当時。故人になった方も多い。次回以降も同じ。
(つづく)