268 死の哲学(9)〈死〉から〈死者〉へ。時間論の転換。

ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 268
268 死の哲学(9)〈死〉から〈死者〉へ。時間論の転換。

ひとくちに〈死〉といっても、そのイメージには、「死・死後・死者」、とある。死も、死後も、自分では経験できない。しかし、死者は、死者の記憶は、否応なく具体的に自分に迫ってくるではないか。田辺元の「死の哲学」の舞台回しは、亡き妻であり、死者である。

そのうえで末木文美士東大名誉教授はこう書く。
「〈死〉から〈死者〉へというコペルニクス的転回が成り立つためには、もっとも大きな意味をもつのは時間論の転換である。時間が過去から未来へ一方向的に流れるという単純な観念は人間の領域でのみ通用するものだ。そこでは永遠とは、その時間を離れた始まりも終わりもない充足ということになる。田辺はこの規格化された時間論を〈未来の終末可能とその到来の不確定〉というところから崩していく」

ここで引用されている田辺の文章の大意はこんなふうだ。
「未来はいつか終末を迎えるとしてもそれがいつ到来するかはわからない。ということは現在の行為が過去をつねに更新していく。過去は不動の静止した永遠ではなく、現在現在によって更新され、復活を繰り返すことになる」
このくだりが、死者との実存協同が成り立つために決定的に重要なことだ、と末木教授はつぎのように書く。
「もし時間が過去から未来に一方的にのみ流れるものなら、過去は現在において〈記憶〉としてしか痕跡を残せないことになり、〈死者〉は時間を離れた永遠の世界に安らぐことになる。だが、時間は反復する。その際重要なことは、その反復はニーチェ的な永遠回帰ではなく、田辺によれば『死から復活し、生者に向上の自覚を促すことにおいて成立する』のである」
その実例として、本ブログ264回に紹介した禅の公案――死んだ師匠が復活して弟子に教えるーーをあげている。

こう書きながら、自分でもすっきりしない。哲学とか宗教のふんいきのある文章は読みづらい。哲学は精緻な理詰めが身上だから念には念を入れ、難解な用語と回りくどい表現の羅列だ。宗教は生まれ育ったこの世とは縁のない時空のできごと、喜怒哀楽が語られる。
「時間」と「復活」をキーワードに、弱い頭脳でちょっと考えてみよう。
時間論はむかし、ちょっとかじったことがあるが、チンプンカンプンだった。いったい時間はいつスタートしたのか。それさえなにもわかっていないらしい。神の誕生とともに時間が始まったとか、人間が意識し始めてから時間をカウントし始めたとか、時間なんてそもそもないのだ、人間が勝手に想定している、または人間の意識のなかのドラマであり、時間の経過や流れは錯覚である、といった説もあったようにおもう。これは宗教書の類でなく、この世を専門に取り扱う宇宙論科学書哲学書に書いてあることだった。

時間は出発点もあいまいだし、未来のゴールもわからない。ゼロとも無限大ともいえる。
田辺の「未来はいつか終末を迎えるとしてもそれがいつ到来するかはわからない」というのはまことにその通りである。
とすれば、次々積み重なって行く過去もさだまらないのは当然だ。これも田辺の言う「現在の行為が過去をつねに更新していく」。

ふと思い出した。作家の玄侑宗久さんが「仏教は過去を変えることができる唯一の思想だ」という趣旨のことを書いていた。交通事故で親を失った少女が進学を諦め、悲嘆にくれ、町工場で働く。そこで青年と知り合い、恋をし、結婚する。幸福いっぱいのなかで、あのときあんなにつらかった交通事故だが、そのおかげで青年と出会えたのだ、と思い直す。交通事故という過去のできごとがいま、新しい価値を伴ってよみがえったーーそういう内容だった。
これだって、「過去」の交通事故の意味が「更新」されたといえるだろう。まさしく田辺のいうように「過去は不動の静止した永遠ではなく、現在現在によって更新され、復活を繰り返すことになる」のであるまいか。

無限大の未来と無限大の過去の間で、時間は永遠に繰り返される、同じことの繰り返しを永遠回帰、とニーチェは言った。ここは田辺とちょっと違う。無限の時間帯の中で、時間は反復するが田辺の復活は単純な回帰ではない。ーー『死から復活し、生者に向上の自覚を促すことにおいて成立する』、つまり、過去(死者)の復活はつねに現在(生者)にそのつど新たな自覚を促す。新たな影響を続ける。同じことの繰り返しではないのだ。そして生者に影響を与えることで過去の意味もまた更新されるのである。

ところでキリスト教の〈復活〉と、田辺が禅の公案で示した「死の哲学」の〈復活〉とはどこが異なるのだろうか。(つづく)