267 死の哲学(8)亡き 妻と二人三脚の「死の哲学」

ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 267
267 死の哲学(8)亡き 妻と二人三脚の「死の哲学」

「死の哲学」を完成させるためにはほんものの〈死〉の実感が必要だった。どうすればよいのか。行き詰まっていた田辺元にふいに展望が開けた。妻の死がきっかけだった。末木文美士東大名誉教授は「田辺は妻の死を契機に、前代未聞のコペルニクス的転回を生み出した」とドラマチックな表現をしている。
何がコペルニクス的転回かというと、〈死〉から〈死者〉へ。田辺は視点を変えたのだった。

敗戦の5カ月前に田辺元は京大教授を定年になり、軽井沢に妻と移り住む。5年後、文化勲章を受け、翌年妻ちよを失う。このとき田辺66歳、以来77歳で亡くなるまでの11年間、田辺は軽井沢で1人孤独な晩年を過ごした。この期間に田辺は「死の哲学」を熟成させ、もうひとつ、ユリの花のような小さな愛を育てた。文化勲章受賞者同士の老いらくの恋として喧伝された作家野上弥生子との交わりである。
71歳のとき、田辺は野上にこんな趣旨の手紙を書いている。
「〈死の哲学〉というものを構想しています。だいたいの腹案は出来、覚書も随分書きました。しかし筆をとろうとするとまだまだ足りぬところがあるように思われ、書き始められません。これを書きあげないと死ねません。思い残すところがないまで徹底的に練るつもりです。〈死の哲学〉は私ひとりの哲学でなく、死の世紀である現代の哲学として万人の哲学です。
死の哲学にとって重要な概念は〈復活〉です。キリスト教徒でもない私が口にするのはおかしいかもしれませんが、妻の死がこれを可能にしました。もはや復活は客観的自然現象としてではなく、愛によって結ばれた人格の主体性において現れる霊的体験すなわち実存的内容として証明されます。
死んだ妻は復活して常に私の内に生きています。同様にキリストを始め多くの聖者は、私の内に実存内容として復活し主体的に私の存在原理となっているのです。その意味で〈聖徒の交わり〉に私も参加できるのです」
聖徒の交わり、とは「キリスト教会の全メンバーが、いま生きている信者も、死んだ信者も含めてひとつの共同体として交わり続けていることを表す」と辞典にある。

末木さんはこの手紙について3点を指摘している。
:「死の哲学」は妻の死がきっかけだと確認されるが、妻の死からすでに5年たっている。田辺はそれだけの時間をかけて考え抜いた。
:自分ひとりの哲学でなく、死の世紀である現代の哲学として万人の哲学でなければならないという時代的必然性を明言している。
:田辺の「死の哲学」は最終的には禅・仏教の立場に立っているが、この段階ではキリスト教の復活が手がかりとされている。

哲学はどうも時代・社会・倫理などから離れたところで思考し論じられることが多いようだが、田辺は実践とか現実の行為を重視した哲学者だったらしい。それは大いに評価したいが、いまボクがもっとも興味のあるのは死の哲学の「実存協同」だ。死をどのように哲学に取り込み論理化するのか…。いや、実のところ、ボクは哲学の構造などにほとんど関心はない。それよりボクだけの心の問題として、親不幸をした亡き親を慰藉したいし、自分も慰藉されたい。あの世に在住する親をこちらに引き寄せ、一緒に話合い、相談しながら、ボクのこの世での時間を共に過ごせたらどんなにうれしいことだろう。
もうひとつ、どんなスタイルにせよ、あの世とこの世が往来できるなら、ボク自身も死ぬときの覚悟づくりに役立つかもしれない。死ぬ怖さが少しは減じるに違いないという期待もある。

そういう個人的事情からいうと、〈死〉から〈死者〉へのコペルニクス的転回が最重要だ。ここで野上さんあての先の手紙をボクなりに意訳してみよう。
―――「妻の死は私に〈復活〉の概念を具体的に信じさせてくれた。死んだ妻は何かことがあるたびに私の内に登場する、生きた姿であらわれる。といってもそれは客観的な自然現象ではない。この世的に物理的にいえば、妻は生きた存在ではない。しかし、私と妻は愛によって深く結ばれていたので私は人格的に私の内にあらわれた妻を確かに意識する。そして私もまた彼女に人格的主体的に対応するのだ。そのとき、両者の間に深い心の交流がかわされ、妻の影響を受けながら、私は思考し、行動する。その意味で妻は私の内に復活し、この世の私を支え、協力してくれる存在といえる。ちょうどキリスト教の〈聖徒の交わり〉に私も参加できるのに似ている」

この世とあの世の入り混じった状況を説明するのは難しい。なにがなんだかわからなくなった。それにこれだと、まだまだ抽象的で、神がかり的だ。もっと具体的に、へんな言い方だが、少しは論理的、科学的な説明もしてほしい。そうでないと「愛によって結ばれていたから人格の主体性において現れる…」などといわれてもどうもマユツバになってしまう。
次回は田辺の「死から死者へ」の転回を、時間論の転換で説明する末木先生の考えを紹介する。(つづく)