266 死の哲学(7)〈死〉を実感し〈哲学〉する方法を求めて

ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 266
266 死の哲学(7)〈死〉を実感し〈哲学〉する方法を求めて

 「死」は哲学でいちばん重要なテーマなのに、つねに「永遠の課題」であり、いまだに未解決のままなのはなぜだろう。
その答えは簡単だ。だれも自分の死を知らないからだ。経験したことがないからだ。だれも経験したことのない死なのに、だれも死を避けることができない。このなんという矛盾。そこに死の最大の問題がある。
 
カントは、死の問題は人間には分からない、手に負えない、解決できない難問だと棚上げした。そこから近代哲学はスタートした。死を重視したかにみえるハイデガーにしても、それはあくまで生の立場から死を憶測し、生の限界状況としての死を論じた。近代哲学は科学に縛られ、死や死者の問題はタブー視された。むりもない、科学では死者は見えないし、説明できない。

 こうして近代哲学は死というもっとも根源の問題を隠ぺいした。〈生〉の哲学はあっても〈死〉の哲学はない。ただ唯一の例外が田辺元の挑戦だと末木文美士東大名誉教授はいい、自分はそれを継承したい、とまで書いている。
 哲学はとことん論理を突き止め、それを万人に通じる言説であらわさねばならない。一方の死は見えない、論理で解明できない、人それぞれ個別的である。それに加えて、「哲学とは死の練習である」(プラトン)のだ。両者は切っても切れない間柄なのに、その距離は埋めようもなく離れている。

たとえば本ブログ156回に引用した哲学者松浪信三郎の『死の思索』(岩波新書)のあとがきを思い出す。
「私は死についての思索をすすめるのに、あくまでも哲学の限界内にとどまることを、自分自身に課した。宗教はわれわれの思いを、死のかなたへいざない、また、死のかなたからの消息を、われわれに聞かせようとする。これに反して、死についての思索は、死の手まえで踏みとどまる。私の思索は、死についての、いわば内在的な・現世的な思索である。哲学の眼から見れば、いずれの宗教も絶対的ではありえない。既成の諸宗教はすべて相対的である。」
 松浪は、哲学が絶対的、と思い込んでいた幸せな人だったのだろうか。近代哲学はいま、疲弊し、傷つき、八方ふさがりで脱出の活路を求めてうごめいているのに。その活路のひとつがまさに〈死〉にほかならないというのが末木文美士さんらの考え方だ。
 
田辺は死を哲学に引き寄せるために随分もがき、苦しんでいる。「死の哲学」以前の著書でも「我々の自己は一度自ら決意せる死から、生死を超える、死における生というべきものへ復活せしめられ…」(『懺悔道としての哲学』)とか、「宗教の信仰がキリストと共に死んで蘇るとか、或いは大死一番とかいわれる、日常的生の否定を要求する如くに、哲学もまた行死をその関門とするのである。」(『実存と愛と実践』)という表現が見える。
田辺の文章は読みづらい。ひとくちにいうと、「宗教ではたとえばキリストとともに一度、死んだつもりになって、新しく生き直す。死んだつもりで自我を捨てて仏道に身をささげる、などという。それと同じように哲学もまた人間の根源である〈死〉をスタートラインに考え直さねばならない」という文意だろう。

死のイメージと格闘しているのはわかるが、ここにある〈死〉はあくまで「死んだつもり」「死を決意する」という比喩・類似の死だ。ほんものの死ではない。
生きたまま〈ほんものの死?ほんものに近い死?〉を実感するにはどうすればよいのだろう。田辺は苦しみ、正直に書く。
「私自身も久しくプラトンの提言に心を引かれてこれを口にし、死とか無とかいうことを説いてきた。その口の下からどこか心の一隅に落ち着かない不安を感ずるのが常であった。自己に実感のない観念や言語をもてあそぶという軽薄不誠実に自ら慙愧し赤面し…」

ほんものの死を体験することなど、だれにとっても物理的に不可能である。これまで、「死んだつもりになる」ために、二つの考え方がとられてきた。
ひとつはハイデガー流に「人間は死すべきもの」と観念して〈生〉の日常に戻る。
もうひとつは「死んで蘇る」(キリスト教に多い)とか「生きながら死人になる、大死一番」(仏教に多い)という宗教的な疑似の死へと戻る。

だが、田辺はあくまで〈死〉にこだわり、しがみつこうとする。
「一度死ねば再び生を回復することは不可能なことと思惟せられ、死ほど厳粛で犯しがたいものは人生にないとさえ考えられる。このように一般に畏怖せられるものを、あたかも超越し、自由に取り扱えるもののように見なすのはまったく偽善であり、軽薄、不誠実、不真面目だと私自身恥ずかしく感じる」
多くの宗教者、哲学者がお気楽に、死の超克、乗りこえ、棚上げを口にしているが、田辺はそれを自分に許すことができなかったのだ。
田辺が「懺悔」と「死」にこだわったのは戦争中、京大文学部長として多くの学生を戦地に向かわせた。その反省が背景にあったといわれる。戦後、国民の「一億総懺悔」が流行語になったが、田辺の懺悔哲学はすでに戦争中に主張されていた。(つづく)