265 死の哲学(6)『実存協同』をボクも実践していた!?

ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 265
265 死の哲学(6)『実存協同』をボクも実践していた!?

メメント モリ』のなかで田辺元は「死の哲学はまだ未熟で、簡単に要約することもむつかしい。だから禅の公案を手引きに説明してみよう」と切り出している。

(辞書をひくと公案とは「禅の修行者に考える手がかりにさせるために示す開祖・達磨の言葉や行動」となっている。)
田辺が引用したのは碧巌録という中国の仏教書の第55則。
簡単にいうとこんな内容だ。ある家で人が亡くなり、その弔問に若い僧が師匠に連れられて訪れた。若い僧は日ごろから生死の問題に熱中しており、お棺を打って「生か死か」と師匠に問うた。もし生なら弔問するに及ばないし、もし死なら弔問してもむだである、いったいどちらなのかと彼は悩んだのである。しかし、師匠は「生ともいわじ死ともいわじ」とその問いを退けた。若い僧はそれがわからなくて迷い続ける。そのうち師匠が亡くなってしまった。

彼は兄弟子の僧にこの問題をもう一度むしかえして尋ねたが、先輩も「言わじ言わじ」というのみだった。そのとき、若い僧は初めて生と死が不可分であることを悟った。両者が不可分なものと理解したうえでならば、「生か死か」という問いも答えも意味を持ってくる。しかしまだ不可分であることを理解していない若い僧にはこの問答はしょせん無意味であったのだ。これは若い僧が自分自身でわからなければどうにもならない、師匠が答えなかったのは弟子にそのことを悟らせるための深い慈悲であった。若い僧はそのことにいま気付き、懺悔と感謝の気持ちがこみあげたーー。

ここでもっとも重要なのは「師という死者の慈悲が働いている。死者である師が、生者である若い僧のうちによみがえり、復活し、生きて働いている」ということだという。すなわち、「死復活」は死者に起こる出来事でなく、死者と生者の間に起こる出来事。死者が生者のうちに復活し、生者を支え、導いていることとされるのだ。
生者の間だけでなく死者にも拡大され、死者をも包みこんだ協同の世界、という概念が田辺の晩年の中心思想だったそうだ。

末木文美士東大名誉教授はこう書いている。
「死んだ師匠は弟子を導き続け、弟子は死者の導きを受けることによって初めて悟りに至ったということで、生死を超えた交わりがそこで可能になる。これを田辺は〈死者との実存協同〉という言い方をしている。田辺の死の哲学はまさしく死者との交流を哲学的に確立した画期的な成果だ」

ボクは死者をも含んだこの「実存協同」という哲学的な考え方があるのを知った夜はしばらく眠れなかった。年寄りのくせに少なからず興奮した。親が死んで間もなかったせいもあろう。死者と交流できるということで生前の親不幸もこれから償うことができるということか。うれしくてしかたなかった。心の中で革命が起こったみたいだった。
 しかしその後、少し冷静に考えると、こういう考え方って、むかしボクの田舎の老人たちがよく口にしていたことと似ているのでないか、とおもいだした。ボクをかわいがってくれた祖母は、「わしが死んでも草場の陰でお前のことは見守っているから安心しよし」が口癖だった。成人した後も、ラッキーなことが起こると、ときどきそんな祖母の言葉を思い出す。

もうひとつ。親が死んで、わずかばかりの遺産が残った。ボクには1人の妹がいるが、遠方に住み、親の世話はボクがずっとしてきた。黙ってボクがポケットに入れても文句はいうまい。そうしかけたとき、親の顔が浮かんだ。親がここにいたら、どういうだろう? 「相続は<争続>という、どんな仲のいい家族もけんかを始めるよ」と嘲笑うように言った銀行員の友人の顔も思い出した。結局ボクは死者である親の「助言」を受け入れて妹にも少しおすそわけしたのだった。こういうことと田辺元の実存協同とはどう違うのだろう。

長谷さんの「実存協同」の解説文からーー。
「生者のみならず死者をも含んだ実存協同の世界は、田辺が試みに空想してみたり、思い描いてみたのではない。そこに生きているリアルで確かな世界として晩年の田辺に現れてきた。」
「とはいえ、その世界は自分の意志や欲望とかけ離れてどこかに客観的に存在するのではない。それは自己の実存的な要求や思いと結びついて見えてきた<信の世界>のリアリティ。自己の根底においてリアルなものとして出会われているのである」

交わりは両者の距離が縮まりゼロになるところに成立するのがふつうだ。しかし、逆に両者の分離、切断、不在の上に成り立つ交わりもある、いや、むしろ不在ゆえに真にリアルとなる交わりもあるーー田辺元の実存協同はそのような交わりだと長谷さんは説明する。
まさしく生者と死者の交わりはこの世とあの世に分離切断され、死者は生者の場には存在しない。「そのような交わりは悲哀を帯びるが、その悲哀によって交わりは純化され透明化される。それを突き詰めたところにあるのが宗教的境地にある信の世界」という。

門外漢のボクはわかったような、わからないようなヘンな気分になるが、このような関係の断絶、一方の不在において成立する交わりの典型例は十字架のイエスが「神はなぜ私を捨て給もうたのか」という問いの場面にあるそうだ。イエスの問いに対して「神」は沈黙し「不在」であるが、この沈黙を神の声と聞くところにキリスト教の「信」のありかたが示されている。これが不在(死者)の交わりのお手本だというのである。(つづく)