264 死の哲学(5)2人称の死と小林秀雄

ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 264
264 死の哲学(5)2人称の死と小林秀雄

 田辺元の「死の哲学」はおもに『生の存在学か死の弁証法か』と『メメントモリ』の2つの著作で構成されている。前者は恩師ハイデガーの「生の哲学」への反論のために書かれた。そして後者は自らの「死の哲学」の手引きのため禅の公案が説かれているのが目をひく。田辺元全集の長谷正當京大名誉教授による解説、末木文美士東大名誉教授の論文集『他者・死者・私』に沿って死の哲学のアウトラインをたどってみよう。

田辺の哲学は晩年になるにつれて、死とのかかわりによって掘り下げられ、独特の深みと広がりを持った。それは京大名誉教授西谷啓治によると「従来の西洋哲学にはなかった極めて独創性の高い意義を持ち、新局面を開いた」。その核心をなす考え方が〈実存協同〉と呼ばれるものだが、それはどのように死と結びついているのだろうか。

1人称の死、2人称の死、3人称の死がある。
田辺の死を見る角度は「自分の死・1人称の死」からしだいに「親しい者の死・2人称の死」へ移っていった。1人称の死に代わって2人称の死が中心になることによって何がどう変わるのだろうか。

長谷さんは「自分の死は汝(親しき者)の死を見るまなざしのうちに溶け込み、親しき者の側から自分が見られてくるのである。それと同時に、人と人との交わりの世界。田辺が〈実存協同〉と名付ける世界が登場してくる。ここで死の問題は、私と汝との交わりの問題となってくる」と解説している。
ここは重要なくだりなのだろうが、宗教や哲学書に不慣れなボクには読みづらい。ただ、「人と人との交わりの世界」、というのがキーワードらしい。とすると、1人称の死は自分本位だし、3人称の死はおたがい縁遠い存在で希薄なつながりだ。やっぱり2人称の死が、人と人とのかかわりの中でもっとも死を意識させるのかもしれない。

柳田邦男さんが著書『犠牲』で息子の死に関連して2人称の死の視点の重要性を説いている。
1人称(私)の死は「自分がどのような死を望むかという事前の気持ちが大事になる」。3人称(彼、彼女、ヒト一般)の死は「第三者の立場から冷静に見ることのできる死」である。交通事故で若者が五人即死しようとアフリカで百万人が餓死しようと、われわれは夜眠れなくなることもないし、昨日と今日の生活が変わることもない。
これに対し、2人称(あなた)の死は、連れ合い、親子、兄弟姉妹、恋人の死である。人生と生活を分かち合った肉親や恋人が死にゆくとき、どのように対応するかという、つらく厳しい試練に直面することになる。

長谷さんは評論家小林秀雄が死んだ母親について語った文章を引き合いに出している。
「仏に上げるろうそくを切らしたのに気づき、買いに出かけた。私の家は扇ケ谷の奥にあって、家の道に添うて小川が流れていた。もう夕暮れであった。門を出ると、行く手に蛍が一匹飛んでいるのを見た。この辺りには、毎年蛍をよく見かけるのだが、その年は初めて見る蛍だった。今までにみたこともない大ぶりなもので、見事に光っていた。おっかさんは、今は蛍になっている、と私はふと思った。蛍の飛ぶ後を歩きながら、私はもうその考えから逃れることはできなかった。」
これについて長谷さんの注釈。
「死んだ母が蛍になっているというのは、アニミズムの世界のようであるが、実はそうでない。生前、自分を支え、護ってくれた母を失った悲しみが、このような形をとって小林の心に現れたのである。愛する者にとって死者は虚無とともに消え去ってしまうのではない、死者は生者のなかに復活する。」

もうひとつ、長谷さんは小林秀雄の文章を引いている。小林が酔っぱらって一升瓶もろともにプラットホームから墜落して九死に一生を得たときの経験。
「一升瓶は、墜落中、握っていて、コンクリートの塊に触れたらしく、微塵になって私はその破片を被っていた。私は黒い石炭殻の上で、外灯で光っているガラスを見て、母親が助けてくれたことがはっきりした。」
その注釈。
「ここでも〈はっきりした〉と小林は断言している。死者が生者に復活することは愛するものにとってまぎれもない事実であることを小林は語っている。それは心霊上の事実とも言うべきものである」

ボクらの身近でも似た話はよく聞くが、小林秀雄のようなリアリストがこういう文章を書いていたとは意外だ。

ところで心霊上の事実とはいったいどういうことなのか。長谷さんは哲学者西田幾太郎の『逆対応の論理』を例に説明している。
「他者の不在や断絶を介して開かれてくる他者との交わりは、西田幾太郎が〈逆対応〉と呼んで人と人、あるいは人と超越者との間の真の関係として捉えたものである。西田はわが子の死に触れて、人は死んだものは如何にしてみても帰らぬから、忘れよ諦めよというが、親にとってはそれが苦痛である。何としても忘れたくない、せめて自分が生きている間は思い出してやりたいというのが親の誠であって、死んだ子を思うことは苦痛だが、親はこの苦痛を忘れることを欲しないのだ。さらに子を亡くした悲哀には慰藉があり、その慰藉は淋しき死をも慰めてあまりある、とも述べている」

田辺元の「死の哲学」は亡き妻が大きな契機となったが、西田幾太郎もまた多くの2人称(子、妻、親)の死を経験し、その悲しみが「西田哲学」の骨格を形成している。(つづく)