263 死の哲学(4) 哲学も死者と語り合えるのか?

ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 263
263 死の哲学(4) 哲学も死者と語り合えるのか?

 中島義道先生の「死」への関わり方、考え方はとても魅力的だ。悲惨残酷を説いているのだけど、甘酸っぱいおセンチな気分になる。このことはのちに改めてとりあげることにして末木文美士さんの、中島義道さんへの突っ込みに戻ろう。

「死は無である」、と簡単に決めつけているという批判のほか、末木さんが問題にしているのは、哲学者中島先生の「他人の死」についての考え方である。中島さんは自分自身の死のほかに他人(他者)の死があることは認めているが、それはあくまで自分の死を理解するための手がかりであり、いわば参考として位置づけている。他者の死それ自体としては軽く扱われ、問題にされていない。
これはおかしいのでないか、というのが末木さんの主張である。

「私が死んだら、私は私にとって無になってしまうかもしれない(そうでないかもしれないが)。しかし親しいものにとって、死者である私は無ではなく、不在として受け止められる。親の死であれ、配偶者の死であれ、まして自分の子どもが自分より先に死んだ場合を考えれば、死によって親しいものが無に帰するとはだれも考えない。」

――死者は無ではないと思うからこそ、墓をつくり、法事や供養をするのでないか。つまり、死者はどこかにいるかもしれないが、ここにはいないという不在性が特徴なのだ。時間軸でいえば、過去にはここにいたが、今はいないという不在性である。いまはここにいないという「不在」と、なにもない「無」とは全然違う。
――以上のようなあれこれのあと、「他人の死や、死後があるかないかというより、死者がいかに現れるかが問題だ」と末木さんはおっしゃる。死者が現れるといっても幽霊のようにではない。生きている者の目にみえるように出現するわけでない。そうではなくて、生者がどのようにその死者に関わるかが問題なのだ。

「死体を物体として投げ出し、死者を思い出すこともなく、無として顧みないのなら、それまでのこと。死者は現れない。しかし、死者を何らかのかたちで遇し、死者の尊厳が問題となるとすれば、すでに死者は私が否応なく関わらざるを得ない何ものかなのだ。無とはいえない」と末木さんは書く。

ところで死者はいわば他者(他人)の代表格だ。私たちは他人の内奥までわからない。しかし、つねに他人や社会のなかで生きていかねばならない。できるだけ相手(他人)を理解し円滑にトラブルのないように暮らすために政治や道徳や法律などのルールを設ける。260回で書いたとおりだ。しかし、このルールで了解し合える領域はじつはごく狭い。それは日常茶飯事になっている若者たちの凶悪犯罪や親殺し、子殺し、の例をあげるだけで十分だろう。他者の領域は広大で不可知なのである。
ところが、近代の哲学はそれを忘れた、ルールでなにごとも割り切れると幻想した、そこに近代哲学が挫折した主因があると末木さんは指摘する。
「もう一度謙虚に、自らに可能な範囲がごく些少にすぎないことを自覚することは今日の哲学に課せられた急務である」とまで書いている。

ここに難問がある。ルールをはみ出す広大な他者(死者)の領域を設定するにも、論じるのも、言葉というツールに頼るほかはない。中島さんがいうように、「境界の向こうに位置する死の側(他者)の言葉を私は知らない」と突っぱねるなら、もはや交流も考察も不可能だ。
確かに哲学が取り扱うのは死のこちら側、言葉の通じる世界であり、それを超えた領域を担当するのが神学、仏教、宗教(言葉の通じないワールド)であるとされている。

だが、末木さんはこの二つの領域ははっきり分けられるものでない、われわれの使う日常の言葉を振り返ってみよ、意味のあいまいなものがほとんどではないか。意味を厳密に明確に確定できるのはむしろ特殊で、せいぜい「科学の命題」ぐらいのものだ。言葉は死のあちら側、こちら側、二つの領域をしばしば越境し往来しながら、新しい価値観や意味づけをこの世のルールに取り込んでいるというのだ。

哲学の用語や言い回しはややこしい。精密さを期すからだろう。もっと思い切って要約しよう。
末木さんは「死者との語り合い」をいっている。生と死、二つの領域の境界はあいまいで揺れ動いているのだ。哲学はそこへ踏み込まねばならない。「死や死者を扱えない哲学は哲学の名に価しない」、と強い調子で言い切る。

では、哲学と宗教はどこで別れるのだろうか。
死のこちら側と向こう側、二つの領域をつなぐ架け橋であろうとするのは両者は同じだが、それを言語の次元で追求しようとするのが哲学であり、さまざまな実践を通して追求するのが宗教だ。とはいえ、両者は重なるし、宗教を排除する哲学は成り立たない、と断言する末木さんのこの論文はつぎのように締めくくられている。
「哲学が再生する可能性があるとすれば、宗教を取り戻す以外にないということだけを、もう一度強調しておきたい。」

それを実践しようとした先駆者が、次回から紹介する文化勲章受賞の哲学者田辺元といえるかもしれない。(つづく)