262 死の哲学(3) 死を棚上げした現代の哲学

ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 262
262 死の哲学(3) 死を棚上げした現代の哲学

哲学の最大のテーマはむかしから「死」と決まっている。「哲学とは死の練習」(プラトン)なのである。ほかに死に関してボクの好きな言葉を拾うと「われわれが必ず目指さざるを得ない目標は死である」「どこで死に出会うかわからない。だから、いたるところで死を待つ覚悟をしておこう」(以上モンテニュー)「人は死と不幸と無知を癒すことができなかった。幸福になるためにそれらについては考えないことにした」「私たちは絶壁(死)が見えないように、前方に何か目をさえぎるものを置いた後、安心して前方(絶壁)へ向かって走っている」(以上パスカル

ボクたちは日ごろ死を見ないように目隠しして生きている。
死を考えるのがいちばんの任務である哲学でさえ、カント流にいえば「知り得ないこと」として棚上げされている。
とはいえ死は哲学にとっていまも最大最高のテーマであることには変わりない。ただ、死の中に踏み込まないのだ。こちら側から山の彼方を眺めるようにはるかに「死」を遠望する、静止画として死を心に留めるにすぎない。哲学は飾り物として「死」を最大のテーマに祭り上げていても、実際は忌避している。

その「死」と実体的に哲学の場で向き合ったのが田辺元だ、それも抽象的な観念としての死ではなく、具体的な死者との交流の形で「死の哲学」の構築に取り組んだ。これは画期的なこと、時代の先駆者だった、と末木文美士東大名誉教授は高く評価する。

いまの日本で哲学者たちがどのように死を考えているか、いかに死から目をそむけているか、そのありさまを末木さんは〈現代日本の人気哲学者のひとりである中島義道さん〉に的をしぼり説明している。これはあとで見る田辺元の死の哲学を考える上でも重要なので紹介しておこう。

たとえば、中島さんは近著『死を哲学する』(岩波書店)で、「死後私は何らかのかたちで生きつづけるかもしれず、すなわち何らかの有かもしれないが、そういう可能性を詮索することはやめる」と、死を完全な無とする考え方を前提にしている。

これに対し末木さんは「死は無だと簡単に前提にしてよいのだろうか」とつっこむ。
哲学はすべての見せかけの真理を疑い、あらゆる可能性を考慮に入れて思索するものだ。中島さんのように、一方を切り捨て、一方の可能性のみを採用することは哲学することの放棄ではないかというのだ。

もっとも中島さんは同書の序文で「死とはわれわれ人間が生み出した言葉だ。言葉のリアリティにすぎない」といい、結論部分では「私の死とは言葉の境界を越えることだ。私の側からは完全な無だが、境界の向こうの死の側からの言葉があるなら、その言葉は私の死を語ることができるかもしれないし、私の死にはまったく新しい意味が与えられるかもしれない」と逃げ道をつくっている。

この中島さんの文章に対して末木さんはこう切って捨てる。
「思わせぶりな言葉を使っているが、要するに、死も死後も分からない〈不可知論〉で十分ではないか。あるいは語り得ぬものは沈黙せねばならないというウィトゲンシュタインにならって〈沈黙あるのみ〉というほうがよほど正直だ」

ちょっと横道にそれて中島さんについて。
カント哲学が専門だが、〈死が怖い〉、がいちばんのキャッチフレーズで死に関する著書が多い。次いで時間論の著書も多い。一般向けの哲学書は言い回しやレトリックが巧みで、ボクのようなミーハー族もついふらふらと乗せられてしまう。末木さんがいうように人気哲学者のひとりに違いない。
さわりの個所を引いてみよう。
「私は朝目覚め、ぼんやり意識が戻ってきたらまず考えるのは〈ああ、俺はいま生きている〉という思いであり、夜寝入るときも〈このまま死んでしまうかもしれないなあ〉という思いであり、道を歩いている時も横断歩道で信号機を待っていても〈もうじき死んでしまうのだなあ〉という思いが通奏低音のようにブンブン音を立てて脳髄を駆けめぐる。しかもこの思いは七歳のころから一瞬の中断もなかった」

パスカルを持ち出すまでもなく、すべての人は生まれた瞬間に〈百年のうちに死刑は執行される、しかしその方法は伝えない〉という残酷きわまりない有罪判決を受ける。身にまったく覚えがないのに逮捕され、判決を言い渡され、人生という監獄で死刑を待っている」

「さらに残酷なことに私が死んだ(処刑された)あと、いずれすべての人が死んで(処刑されて)しまい、地上には1人の人間も残らなくなる。いま人類の知的遺産や物的遺産を保存することに何の意味があるのか?緑の地球を後世の人々に残したとしても、彼らもじきに死んでしまい、人類もやがて全滅するのだ。(現代の宇宙論によると)地球そのものだって、あと数十億年したら膨張する太陽に呑みこまれてしまうらしい。この広大な宇宙に人類や地球についてわずかにでも知る者は誰もいない」

「最近、若い男女が抱き合っている遺骨が発見された。5,6千年前のものだと言う。二人はどんな気持ちで若い命を終えたのか。彼らの死を嘆いた人々もみんな死んでしまった。いま地上に生きている60億を超える人々もあと百年もすればほとんどが消え去ってしまう。そして永遠に地上に戻ってくることはない。こうしてあくせく働いて、結局は死んでしまい、その後人々はすべて死んでしまい…とするとなんで私は生きているんだろう、苦しいことが山のようにあるのに」                   (つづく)