261 死の哲学(2)この世に在籍しながら「あの世のルール」を!

ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 261
261 死の哲学(2)この世に在籍しながら「あの世のルール」を!

 人間社会を成り立たせている政治や経済、法律や倫理や科学、道徳などが通用しないのが宗教である、その点では狂気、犯罪、死、衝動などと同類だと末木文美士・東大名誉教授はおっしゃる。なるほどすっきりしている。
最近読んだ哲学者鶴見俊輔さんの新刊『かくれ佛教』では、仏教アナキズム、という言葉も散見される。これも好きな表現だ。
宗教はしょせん、この世向きでないのだ。いや、ボクだってそれくらいのことはわかっている。しかし、改めてこういう碩学に定義されてみると、どこかふしぎに心が明るくなる。なぜだろう。なにもこの世のルールだけにこだわらなくてもいいのだよ、と公認されたような、許されたような。
目の前が広々としてくる。

ボクはいま、なぜかこの世に生れて、この世を生きている。多くのみなさんと同じように、楽しいことよりしんどいこと、好きなことよりいやなこと、満足なことより不満足、面白くないことの方がはるかに多い。しかもボクのような年齢になると、もう環境の逆転はむりだ。客観的な生存条件もほぼ固定してしまっている…、とボクは諦めている。だが、それは「この世のルール」に従えば、の話である。

どうだろう、この世に一応、籍を置きながらも、別のルール、たとえば「あの世のルール」を適宜、組み合わせることができたら楽だろうな。

以前、量子論をかじったとき、この世とあの世の境界をひょいひょい往来することは理論上は考えられると教えられた。また、最新の宇宙理論によれば、宇宙はこの宇宙だけでなく、この宇宙の彼方に無数の宇宙がクラゲのように発生している可能性があるという。
この世だけがすべてじゃないのだ。そう思うと気楽になる。

一歩手前に引きよせて考えてみても、「私とは何か」というごくごく基本的な問いも、人間の身体や心のメカニズムさえいまだに解けないじゃないか。これからだって解けそうにない。
たとえば続発する少年の凶悪犯罪についてもそのつど著名な心理学者、社会学者、精神医学者がもっともらしい背景説明をするが、すっかり解明できる理由などどこにもみつからない。宗教学者山折哲雄さんはそれらの説明をそれぞれ「心理、社会、精神病理の三種還元法」と嘲るように呼び、「学者たちは人間というこの未知な存在がわかっていないのに、わかったつもりで……」と述べている。

年を経ると、科学の限界や社会を規定する「この世のルール」の狭さや不備が目につき、反比例して「あの世のルール」や、宗教の占める位置がだんだん大きくなってくるように思われる。ボク自身があの世に近づきつつある証だろうか。

最近、田辺元の『死の哲学』に触れ、久しぶりに興奮した。
死者との交流を通じて新しい思想、考えの在り方を展開している。しかも死者のモデルは自分の亡き妻だ。ボクがそんな話を説いても相手にされないだろうが、田辺元は京都学派の代表的な哲学者だ。西田幾太郎に招かれ、その後継者となりながら、のちに西田幾太郎を強烈に批判し、科学哲学から宗教哲学、それもキリスト教浄土真宗禅宗と渡り歩き、晩年は北軽井沢に立てこもり、亡妻との対話を重ねながら死の哲学を深めた。

気難しい癇癪持ちだったらしいが、最晩年は妻の友人で作家の野上弥生子との濃密な交流に彩られた。1950年〜1961年まで11年間におよぶ346通の往復書簡が岩波書店から出版されている。田辺は『死の哲学』の構想を深め、野上は大作『迷路』の仕上げに骨身を削っていた時期だが、慕情を確かめ合う詩歌のやりとりもあり、ともに70歳を超える文化勲章受賞者同士の老いらくの恋と話題になったらしい。

ちょっとうらやましくなったボクは田辺元哲学書何冊かを斜め読みしたが、難解な表現とクセのある言い回しでじつに読みづらかった。どこまで理解できたかわからない。末木文美士さんや長谷正當京大名誉教授の解説を手引きにボクなりにわかったつもりになった『死の哲学』のいくつかの場面を次回から紹介する。(つづく)