260 死の哲学(1)「うめき声」は共通の言葉やルールからはみ出る

ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 260
260 死の哲学(1)「うめき声」は共通の言葉やルールからはみ出る

 この世は苦だ。悟りなさい。
 この世は空しい。執着してはいけません。
 ものは考えよう。何でもいいように解釈したらよろしい。
 ――これが仏教の教えだ。社会改革の具体的な構想がなく、連帯感に乏しい。いかにも個人プレー、自分だけがよろしければよろしいでしょう、という雰囲気である。

ボクのような老人になると、それで心が安らぎ、死の恐怖が減じられるならけっこうじゃないか。社会や人様はともかく自分がいいならそれでいいよ、という心境にもなるが、いったい仏教は他者・社会のことをどう考えているのか。ふと気になるときもある。

東大教授末木文美士さんの著書『仏教対倫理』(ちくま新書)がこの点を論じている。要約しよう。

―――多くの哲学者や宗教者は仏教がキリスト教などに比べて倫理(人間社会のルール)に弱い理由としてつぎの3点をあげている。
1 遁世主義。
世間離れした考え方を強調し、現実の問題に無関心になりがちなことを指す。
2 空・一如思想。
すべては因縁によってできた仮の姿であり、永久不変な実体はない、異なった現象もじつは一体だと仏教は説く。それなら善悪の区別もつかないではないか。
3 神秘主義的性格。
論理的な道筋や説得より、段階を経ずに一挙に真理にいたる悟りの体験に究極的な価値を置くため、論理や倫理などが軽視されがちである。

 世界のもろもろの存在が〈空〉であり、すべて変化するというのなら、物事や事象に執着する必要がない。それは裏返せば状況次第で意見、考え方を変えても差し支えないということになる。戦時体制のとき、戦争に賛成した仏教界を思い出そう。平和時には平和主義を唱える仏教界のありかたにも矛盾はないのだ。
 般若心経の有名な「色即是空・空側是空」は、迷いの世界も悟りの世界もじつは同一であることを示しており、それならなにも迷いの世界を変える必要はないことになる。「煩悩即菩提」という仏語は、煩悩している姿も悟りの姿も同一であるといっている。それなら煩悩や悪もそのままでかまわない。このありのままの現象世界はそっくり肯定される。路傍の小さな草花も虫たちも、みな仏の世界に生きているのだから、むだな命はない。どんな小さな生命も大事にしなければならない。

この考え方はまだ若く人生に絶望を感じていた末木さんを救ったが、一方で、それならすべて仏の世界の中で行われていることなのだから、どんな悪いことをしてもいいのか、許されるのか。この疑問はやはり残った。

世界全体が〈空〉であるとか、「すべての衆生を救う」などと問題を大きく観念的に捉えると、人間社会のありかたとかルールなど倫理は吹っ飛んでしまう。仏教と倫理は永遠にすれ違いだ。けれど、たとえば遠くの国の戦争より、自分の子供の方がよほど気にかかるのが現実だ。そのように身近な現実から解きほぐして考えると、仏教と倫理の接点、あるいは領域の違いのようなものが見えてくる。

フランスの哲学者フランソワ・ジュリアンの『道徳を基礎づける』の冒頭に『孟子』に出てくるひとつのエピソードが置かれている。こんな話だ。
斉の宣王はあるとき、祭りの生け贄にされる牛が引かれていくのを見た。おどおどした牛をみて王は可哀想に思い、助けてやれ、という。それなら祭りをしなくていいのかというと、そうもいかない。そこで牛の代わりに羊にしようということになった。人々は王はケチだから牛よりも小さな羊にしたのだとうわさした。
これに対して孟子は言う。「王は牛を見たが、羊は見ていない。鳥でも獣でも生きているのを見ていては殺されるところを見たくない。殺されるときの悲しげな声を聞いてはその肉を食べる気にはなれない。だから君子は調理場の近くを自分の居間とはしないのだ」
うわべだけの偽善のにおいもするが、引用した後、ジュリアンはこう書いている。
「怖がる牛を王は自分の目で見てしまった。その怯える光景はふいに王の前に出現し、王は心の準備ができていなかった。一方の羊の方を王は見ていない。羊の殺される運命は王にとって観念にすぎなかった。実際をみていないので心は論理のとおり動く。無感覚でもあり得る。一方、牛の方は見てしまったため、論理は観念通りにいかず壊れ、常識や感覚が揺り動かされたのだ」
 これに関連して末木さんは仏教と倫理の関わりを述べている。ボクなりに簡潔に意訳させてもらうと以下のようになる。

倫理(人間社会のルール)とか観念は、論理に沿ったものの考え方だ。だから人間のふだんの秩序の範囲内に収まる。共通性がある。しかし、たとえばアウシュヴィッツを、ヒロシマを、阪神大震災を、アメリ同時多発テロを、東日本大震災を、じかに直撃され、見てしまった不幸。その衝撃や実感が大きすぎたとき、それは論理や言葉に収まらない。だれにも伝えきれない、わかってもらえない、語りきれないトラウマとして沈殿する。大事件に限らない。だれもが日ごろの暮らしのなかでそんな経験をしている。他人にはわかってもらえない本人だけの心のうめき。共通の論理からあふれ出てくるのが宗教なのだ。
倫理や科学、政治や経済、法律などで一括処理できないものーーそこに深く関与するのが宗教であり、なかんずく仏教の特質なのである。(つづく)