258 宗教を科学する(44) キリスト教のフランクル批判

ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 258
258 宗教を科学する(44) キリスト教フランクル批判

フランクルが「人生から何をわれわれは期待できるかが問題ではなく、むしろ、逆に人生が何をわれわれから期待しているかが問題なのだ」といったことはよく知られている。この有名な言葉は天動説から地動説へ転換したコペルニクスになぞらえて、しばしばコペルニクス的転回といわれる。

この言葉を引いて、宮田先生は書く。
フランクルは別の書物では、われわれに期待する主語は『人生』でなく、『神』と言い直している。つまり、神は私になにを期待したもうのか、というのがフランクルの真意である」
だからこそ、強制収容所のような極限状況で苦悩の果てを経験したあとでは、この世界で神以外に恐れるものは何もない、と言いきれるのだと強調する。ここではキリスト教フランクルとは重なる。

これに続いて、苦悩の意味(苦悩の効能?!)のオンパレード。以下の通り。
 「苦悩は運命や死と同じで、人生に基本的につきまとうものだ。人間らしい人間であるためには、喜びとともに苦悩という通路を通らねばならない」
「苦悩する限り、私たちは精神的に生き生きしてくる」
「苦悩において、私たちは成長し、いっそう豊かに力あるものに育つ」
「苦悩を回避したり、ごまかしたりしないこと。克服しようと努めることがなにより重要だ」
フランクルは、苦悩に耐える力こそ、生きる意味を経験し実現する上で最も重要。最高峰にあるといっている」
フランクルは苦悩の意味を深く追及した精神医学者として名高いし、キリスト教も苦悩を主軸に置く。ここでも同調路線である。

ところが次に、宮田先生はフランクル強制収容所で苦悩に耐えた人々を〈人間の最高の業績〉と書いている点を批判する。
それは人間だけの力でなく、媒介者としてイエスの恵みがあったのを忘れている、というのだ。
宮田先生は書く。
「地上の生活において、何であれ確実なものとして頼りにすることはできない。いかなるものも完璧でも完全でもない。この世の生活においては真の補償となるものはない。フランクルの地獄の体験はそれを教えてくれたのだ。神以外には怖いものはない、というフランクルの添え書きはまさに宗教的な体験であった」とまず宗教的体験にアクセントを置く。

「地獄のような極限的な状況は人生が無意味ではないかという懐疑と絶望を引き起こす。それでもなお、人生にしかりと言い、生きる意味を引き出すためにはこの世が、それを超えた世界によって包まれ支えられていることへの希望ないし信仰が必要ではなかろうか。そうした〈超世界〉による意味づけーー〈超意味〉に基づいてはじめて極限状況における苦悩にも意味を与えることができるのでないだろうか」と信仰を前面に押し出す。

「とはいえ、人間に飼いならされた牛馬たちが人間の目的を知らないように、人生の最終目的とか、世界の超意味について人間は知ることができない。それでもなお、それを思考することなしには意味ある人生はない。この超意味に対する信仰――これがフランクルを貫く宗教性だ」と、牛馬と人間、人間と神、の類比を示す。

次いで宮田先生はフランクルキリスト教の考え方の違いを並べる。
フランクルは「理想主義的な人間観をもち、人間たるにふさわしく自由な責任主体として愛に生きるべきだ」――(人間が中心?)
キリスト教は「神はあなたをキリストにおいて愛している。それゆえキリストを信じる者として自由な責任と愛に生きることを許されている」――(神が中心?)

最後に宮田先生は断定する。
人間を不自由にしているのはこの世的なものを絶対視するからだ。キリスト者は究極的な価値と、究極から一歩手前の価値、とを区別できる。この世はむろん後者だが、キリスト者は地上のものを絶対化することなく、地上を歩きながら自分がまだ最終目的に達していないことを知っている。しかしまた、神が私たちの目標をよく知っていてくださることを確信するゆえに落ち着いて生きることができるのだ。フランクルの思想とキリスト教信仰との間には見逃すことのできない相違があるが、しかし、精神的同盟者であるといっている。

フランクルがどの宗教を信じているのか、ボクはしらない。キリスト教でないとすればユダヤ教か。彼の書いたものには人間の偉大さを強くアピールする一方、特定の神の押しつけがましさが感じられない。ボクは人間の偉大さとか力も最終的には信じていないが、なんでもかんでも神、神、と押し付けられるのは一神教的臭気が強くて親しめないなあ。

強制収容所で得たなによりの収穫は「謙虚さと勇気」であり、また「日常は有限が無限に出会う場所」だと学んだ、などフランクルはほかにも示唆に富んだ宗教的キーワードを記しているが、ボクは少々飽和状態だ。いずれ稚拙ながらボク自身の宗教の方程式をつくるときに紹介することにして、フランクルはこの辺でいったんお開きにしたい。