257 宗教を科学する(43)番外・大地震で女子アナと専門家の問答

ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 257
257 宗教を科学する(43)番外・大地震で女子アナと専門家の問答

 東日本巨大地震の悲惨な光景をテレビでみた。陸地に営々と培われた人間の営みがまたたく間に海になっていく。高校生ぐらいの少年が、「家族も家も全部流れてしまいました。」と表情もなく立ちすくんでいた。被災者の方々を思うと胸がつぶれる。それは本心なのだが、その夜も飲みに出た。むかしの学校時代の同窓生たちと約束していた駅前の大衆酒場は金曜日のせいで賑わっていた。仲間の1人が「こんな日にのんきに飲んでいていいのかな」といった。ふだんそんな殊勝な口をきく奴でない。そのひとことでボクたちのテーブルはしんみりとなった。
 
悪い事をしているような気持で、それでもコップ酒を重ねて帰宅した。テレビはどこも地震関係だ。勉強のできそうな若い美人アナが、年配の学者に質問をしている。

ーー地震津波がつぎつぎ起こってきますが、なぜですか。連動する理由を教えてください?
「さあ、そこのところはわかりません」
ーーえっ、わからないのですか。いつまで警戒すればいいのですか? こんな状態はいつまでつづくのでしょうか?
「それはわかりませんね。とにかく警報や情報にじゅうぶん注意して…」
ーー太平洋の津波日本海側にもおよぶのですか?
「もちろんそうです。海はつながっていますからね。世界中に。」
ーー余震はまだつづくのですか?
ーー津波は?
同じ質問を堂々巡りしながら、学校の成績はよかっただろうみたいな美人アナの表情がだんだんとがってくる。「なんでそんなことがわからないの?」と苛立っているのが丸見えだ。

ーーこの大地震を国は想定していたのですか?
「想定していましたが、想定にはいろいろレベル、段階があります。もう少し小さい地震の想定に重点がおかれていたのでは」
ーーすると、今後もっと大きな地震がくる場合も考えられますか
「さあ、あるかもわかりません。はっきりしたことはいえませんが、ないとはいいきれないでしょう」
ーーどんな大きな地震にも耐えられるような原発はつくれないのですか?
「どんな大きな地震といっても、地震のことだから…相手は自然のやることですから」と学者は言葉を濁した。
女性アナはやっぱり学校の勉強はできたんだろう。ふつう、学校では知識を教える。合理的、科学的なものの考え方が身につく。ボクたちが接する時空の現象は学術の力で、努力さえすれば、頭が良ければ、なんでもわかる、やれる、解決策はある、と思い込むようになる。だが、それこそ「迷信」の一種なのだ。
世の中も地球もわからないことだらけ、極大の宇宙のことも極小の量子の仕組みも人間はてんでわかっていない。科学が解明できたことはほんの一握りに過ぎない、相手は大から小まで人知をはるかに超えた無限なのだ――そういうことは学校ではあまり教えないとしても、まともな、えらい科学者ほど説いていることだ。本ブログでもかなり紹介した。
無限の中の有限な人間。それを知ったとき、人は宗教的なものに気付くようだ。

本ブログ14回に紹介した世界的な神学者、北森嘉蔵牧師の言葉をもう一度引用しよう。「ふだんは宗教なんかの出番はありません。できればそんなもののお世話にならずに一生を過ごしたいものです。けれどね、みなさん、そうは問屋がおろさない。人生にはタライをひっくりかえしたような、フロ桶の底が抜けるような一大事が必ず起こるのですよ。そのとき、はじめて宗教が必要になる!」

 「神」の代わりに「宇宙」という言葉をはじめて使ったのは近代プロテスタントの父といわれるドイツの神学者シュライエルマッハーだが、彼は「宗教とは宇宙を感じること」といっている。これは「宗教とは無限や大自然の威力と謎を感じること」ともいいかえられよう。 
作家で医師の加賀乙彦さんは「無限永遠の宇宙のなかに存在する、有限つかの間の自分、そのふしぎさ」が宗教(キリスト教)に傾いていくきっかけだったとつぎのように書く。
 「人間の寿命は50年から百年くらい。宇宙は何百億年、いや、宇宙の発生理論によれば宇宙が始まったまえにも時間があったということだ。つまり宇宙は永遠の時間がある、なのに人生はどうして?…。空間的にいうと人間の身体は大人でも150センチから2メートルくらいなのに、宇宙の大きさは無限。そういうものの中に自分はどうして存在しているのだろうという疑問…」
 親鸞を再発見し、近代日本の仏教を確立した清沢満之も「無限と有限」を最大のテーマに独特の思考と哲学を展開した。
 
  被災された方々に心底からの哀悼と連帯を捧げる一方で、年相応に自然体で老い、死んでいくラッキーを思ったりした。このごろ、むかしの学校仲間がよく集まる。あいつは寝たきりだ、あいつは癌だ、あいつは死んだ、と仲間の消息を伝えあいながらひどくわびしい。自分たちの老いを否応なく直視させられる。自分もそろそろそういうお年頃なのだ。

医者をしているやつが、「お前も長生きしてしまったんだよ。あとは癌か、脳(心筋)梗塞か、認知症か。三つの選択肢しかない。どれをお望みかね」とぬかす。毎日が不快・不安でしかたなかったが、しかるべき場所で医療や介護を受けながら、大きなアクシデントもなく、死んでいくのは生き物としての常道なのだと改めて気付いた。自然に老い、病み、死んでいける幸せ。せめてこれからは悪い事をせず、刑務所などで死ぬようなことのないようにしたい。