256 宗教を科学する(42)「生きる意味」そのものはない

ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 256
256 宗教を科学する(42)「生きる意味」そのものはない

ボクたちは日常を軽く見る。どうせ、時間のかけらだ。しかし、フランクルは日常こそが重要だという。日常はじつは、永遠と通じている。いやそれどころか、日常はまぎれもなく永遠の一部を構成している。日常がなくては永遠も成り立たない。ちょっと思案すれば、まさしくおっしゃる通り。

たとえば、こんな表現をしている。
「永遠は私たちに日常に帰れ、と指示している」とか、「日常は有限なものが無限なものに出会う場所である」――。
はじめの言葉はわかりにくいが、後者は何度か噛みしめていると、ボク自身の見聞や意識も、無限の向こうのなにかと通じ合っている、そんなイメージのような概念が束の間、明滅してきたりする。
 フランクルは書く。
「私たちが時間の中で創造したり、体験したり、苦悩したりしていることは、同時に永遠に向かって創造し、体験し、苦悩しているのだ」
――なるほど、こういう言い方もあるな。

さらに書く。
「まだ生じていない出来事はあなたが放っておけば、いつまでも生じない。まだ生じていないことをまさに生じさせるのがあなたの重大な責任だ。日々の仕事の中で、日常性の中でその責任を自覚せねばならない。」
 
こうも書いている。
「あなたの日常のその瞬間瞬間には何千もの可能性があるのに、そのうちのたったひとつの可能性を選んで実現するしかない。ひとつの可能性を選ぶということは、その他のすべての可能性に対して、存在しないと宣告を下すことになる。それらの可能性は〈永遠に〉存在しないことになる。あなたが選んだひとつの可能性は、あなたが救い出したことにより現実のものとなり、露と消えてしまわずにすんだ」。
――このような重大な決断を私たちは日常の瞬間瞬間に行っている、だからめまいを起こすほどの大きな責任を私たちは負っているというのだ。おおげさに思うが、考えてみれば確かにそうだ。ただし第三者に明快に説得する能力がボクにはない。
そのへんのところを宮田光雄・東北大名誉教授の著書『われここに立つ』(岩波書店)がわかりやすく書いてくれている。宮田先生はヨーロッパ思想史専攻で日本学士院賞吉野作造賞などを受賞した多くの著書がある。そのかたわら長年にわたり、学生・若者のための聖書研究会を主宰していることで知られる。
 
宮田先生によれば私たち人間は昔から、「自分はいったいどこから来て、どこへ行くのだろう」という二つの問いの答えを求めてきた。
現代ではこれにもうひとつ、「私の人生の意味は何だろう」という問いが加わった。
 生きる意味を考えるとき、漠然と抽象的、一般的な大きな問いを出しても答えはみつからない、というのがフランクル流だ。
 宮田先生も言う、一人びとりの〈かけがえのなさ〉と、彼が直面する状況が〈一回かぎり〉であるのものであるということから、きわめて具体的な意味に関わっている。人生の課題そのものとか、生きる意味そのものとか、人間にとっての意味そのものといったものは存在しないのだ、と。

 そしてフランクルの著書から二つの例を取り出している。
 ひとつは、238回にも触れたが、チェスや将棋の名人に「一番よい指し手は何ですか?」と尋ねるのはナンセンスに決まっている。指し手は相手の出方に応じてそのつど最善のやり方を編み出していかねばならない。人生の課題、生きる意味もまた同様に、それぞれの状況に応じて考え、判断し、実践していくほかはない。どんな場合にも通用する絶対的に決定された最善の指し手、状況判断などあろうはずがない。
 
ふたつめはゲーテの言葉だ。
 『人間はいかにすれば自分自身を知ることができるだろうか。考えているだけでは決してわからない。ただ行動することによってのみわかる。あなたの義務を果たそうと努めよ。あなたはただちにあなた自身を知るだろう。ところで、あなたの義務とは何か? それは日々の要求である』
 
このよく知られた言葉を引用し、日々の具体的な状況の中であなたの人生があなたに課してくる課題に対して責任をもって答えることによってはじめて生きる意味を発見できるのだ、と説く。
ところでその日々の課題を提起するのはいったいだれなのか。じつはそれが神なのだ、とクリスチャンの宮田先生は結びつける。
 次回は宮田先生がキリスト教の立場からフランクルの考え方にちょっぴり批判している点に触れる。(つづく)