255 宗教を科学する(41)世界で神以外に怖いものは何もない!

ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 255
255 宗教を科学する(41)世界で神以外に怖いものは何もない!

ずいぶん寄り道してきたが、もう一度、フランクルに立ち帰ろう。
名著『夜と霧』の結末には何かどんでん返しを見るような文章が置かれている。
「やがていつか、解放された囚人たちが強制収容所の体験を振り返って奇妙な印象を受ける日が来るのである。彼はあの強制収容所をどうして耐え抜くことができたかほとんどわからない。そしてすべてが美しい夢のように思われる日が…あのかつての自由の日々と同じように、収容所で経験したすべてが彼には一つの悪夢以上のものに思われる日もいつかくるであろう。解放され、家に帰った人々のすべてこれらの体験は〈かくも悩んだ後には、この世界の何ものも…神以外には…恐れる必要はない〉という貴重な感慨によって仕上げられるのである」

●言語を絶する悲惨と辛苦と苦悩に満ちた強制収容所の日々さえ美しい夢のように思い返す日がいつかくるというのだ。別の著書では解放後の失望から「もう一度、あの収容所に戻りたい」という元囚人さえいると報告している。
苦悩にはこれが最大という限度がない、底がない。苦悩はどれが大きくて、どれが小さいという基準はない、比較ができない。苦悩する人はどんな苦悩であれ、それで心がいっぱいになるとも書いている。つまるところ、人間の苦悩や煩悩などしょせん相対的なものだと言いたいのである。

いや、しかし、フランクルが最も言いたかったのは、〈世界にーー神以外のものはーー何も恐れる必要はない〉という個所だろう。世界で恐れるに値するものは神だけなのである。
強制収容所の数々の悲惨と苦悩の描写も、最後のこの一行を裏付けるために書かれたと思えるほどだ。

「神以外に恐れるものは何もない」――カッコいい結論だが、もう一度ここに至るロジックをフランクルの講演集『それでも人生にイエスと言う』から要約してみよう。

収容所から生還したものの、憧れていた現実はあまりに不幸で、むしろ、かっての収容所の日々を懐かしむケースが珍しくなかった。なぜだろうか。収容所の日々は悲惨の極みであったとしても、そこには〈いつか解放されたらまた幸せになれる〉という一筋の希望があった。ほんのわずかであっても、幸せになれるという可能性は、幸せではないという現実の絶対的な事実よりも上なのである。(どういう種類の不幸であったのか、フランクルは書いていない。例えば愛する妻に裏切られたことなども含まれるのだろうか、とボクはゲスの勘ぐりをする。)

一筋の希望を喪失した彼はいまや収容所時代以上の悲惨と失望に陥っている。ただ、その彼が、最終的に救われるのは〈謙虚〉と〈勇気〉による。このふたつを彼は収容所の絶望的な運命のなかで学んだのだ。
パンのほんの一切れ、ベッドで寝ることができる、監視兵による点呼に立たなくてもいい、殺される危険がたえずある中で生きていなくてもいいという状況――もしこれらが許されるなら、それ以上は決して望みはしない。感謝をもって受け止めようという謙虚な気持ち。名誉もお金も地位もしょせん非個人的で本質的ではない、そんなものはいざとなると、「溶けて」しまう、と身にしみて知ったのだった。

もうひとつ、囚人たちは収容所に入ったとき、文字通り丸裸にされ、衣類はおろか体毛一本残らずそぎ落とされた。フランクルは「無になった人間は生まれ変わったように感じる」と書いている。こんな極限の運命のもとで丸裸になった自分は神以外はもうなにもこわいとも思えない。なにものも恐れることはないという一種の勇気が囚人たちの身についたという。
(矢でも鉄砲でももってこい、というやつであろう。極限状況におけるこの開き直りに似た感情の転換。勇気の誕生、この心のプロセスはボクにも理解出来る。)

とはいえ、ここで神が登場するのは唐突な感じもする。もしボクが収容所で無の状態になったとしても、神を意識するだろうか。何の信仰もないボクにはその自信はない。
フランクルはそれを予期したように「この地点で信仰者の道〈神〉と無信仰者の道〈無〉が分かれると思うだろうか」と問いかけたうえで、「神はすべてにしてかつ無である」と断定している。

なぜなら「すべて」を凝固させ概念にすると、つまるところ溶けて「無」になる。また、無は結局それは捉えられないもの、言葉では言い表せられないものとして私たちに「すべて」を語る、それは神なのだという。
だからこのような極限状況にあれば、なにも怖いものはなくなる、ただし、唯一、神のみを畏れる、という論法のようだ。茶化して言えば、なにしろ神は正体不明なのだから。――
このあたりは宗教色が濃厚でわかりにくい。宗教とはもともと言語では表現できない要素を多く含みむから、言葉のやり取りだけで全部を理解しようとするのはむりかもしれない。フランクルも「ここではもはや議論や講演は役に立ちません。ここに残っているのはもう、ただひとつ、行動だけです。しかも日常の行動だけです」と書いている。宗教関係の文献などではこの種の飛躍が珍しくなく、ボクも少しずつなじまされてきている。次回は有限と無限が絶えず出会う場所としての日常について考えてみよう。(つづく)