254 宗教を科学する(40) 哲学の神と宗教の神 

ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 254
254 宗教を科学する(40) 哲学の神と宗教の神 

 再び川口さんの日記に戻る。
 「見舞客らが、ひそひそ話をしている。ささやきが耳に入る。耳も聞こえないと思っているのだろう。
 『ああして、車いすに1日乗っていられるほど、身体がマヒしてなにも痛みや疲れを感じないのだよ』
『本を読む格好をしているが、どうしてページをめくれるのだろう』
この人たちは何を、どう理解しているというのか。
 毎度のことでさほど気にならなくなった。信仰に出会ったおかげで、私の短気で、向こう意気の強い性格も丸みを帯びてきた。これからも人を傷つけず、祈りを持ち続けよう。」
 ●病人や障害者の人たちにとってこんな視線やささやきは悲しいだろう。かといって、ツンとすまし顔で通り過ぎるのもえらそう、傲慢、不自然にみえることもあろう。根っから無関心というのもこれまた冷たい感じだ。むつかしい。

 「梅雨が明け、セミの声が一段と大きくなった。セミは自分のいのちの短さを知っていても知らなくても、その日その日の恵みに対して身体いっぱいに喜びをあらわし、短い夏を謳歌している。私も見習おう。私は死をみつめているが、キリストで生き返らせてもらった。自我のおもむくままに暮らした40年、キリストに救われた1年、そして導かれた松山の3カ月。たとえこの身が縮もうと、残された日々が短くなろうとも、残された日々を力の限り生かされたい。日を追えぬヒマワリはみじめだ。セミに励まされ、運命と摂理にかけ、突っ走ろう。これが私の生き方だ。」
 ●ヒマワリはみじめだ、というところに、川口さんらしい生硬さがのぞく。ヒマワリはゆっくり太陽に身を任せて、これはこれですばらしい時間と命を生きているのだよ、といってあげたい。

 「いま、生まれて初めての平安が与えられている。こんな平安があるとは想像もできなかった。死を受容したときは、自分にむりに諦めと悟りを与えようとした。しかし、むなしい寂しさにたえず襲われ、生きる意味を失ったことが思い出される。その過程があったからこそ、逃れる道も授けられたのだろう。もう何の思い煩うこともない。あとは残された日々をどうすれば神に喜ばれる者になれるか、おのれの信仰の証のために生きるだけである。孤独の闇の中で神とのコミュニケーションが持てるか、持たせてもらえるか。身がひきしまる。」
 ●過ぎた日々を振り返りながら、少しずつ信仰を深めていく様子がうかがえる。そして闘病記『しんぼう』は次のように結ばれている。

 「実習生も数が増え、看護師もゆとりが出来てきたのか、触れ合う機会も以前と同じように戻って来た。ゆとりはいいものだ。私の気持ちもゆとりにあこがれている。貴重な時間の中から時間に追われることなく、時間を創り出していきたい。神に願い、御手にすがり、兄弟姉妹にたよらなければならない。気持ちよく受けるためにたえず気持ちを洗い清めて、エゴをぬぐい去ろう。」
 ●「ゆとり」「受ける」「エゴ」。川口さんはこの3つのキーワードこだわってきたと思う。すなわち、ゆとりを求めつつ、ゆとりなくいらいらして時間を過ごした。人に与える立場の意識が強かったが、人から受ける安らぎに落ち着いてきた。自分がエゴだと素直にわかり、反省している。

 『しんぼう』が出て2年後に『続しんぼう』が出た。それからさらに川口さんはがんばり、日本ALS(筋委縮性側索硬化症)協会を結成し、その初代会長となった。翌年には名誉会長に身を引いた。発病後、21年間の長きに渡って、身体の病気と闘い、心の懊悩、煩悩と苦しみ続け平成6年、53歳で亡くなった。
 
 ボクは松山ベテル病院に川口さんを訪ねたことがある。正直言ってあまりいい感じは持たなかったように思う。つっけんどんで、せっせとタイプをうっていた姿がぼんやり思い出される。ぶしつけなボクの視線が不快だったのかもしれない。
 川口さんは敬虔なクリスチャンになった。しかし、川口さんはあまりキリスト教にくわしくないし、勉強もされておられないと思う。聖書に親しんだとあるが、どこまで理解されたか? いや、ボクが言いたいのはそんなことではない。川口さんは奉仕するふつうの信徒たち、そしてマザーテレサのわかりやすい具体的な言動が引き金になって飛翔したのだ。理論より実践の姿が川口さんの心を打ったのだ。

 215回に述べた東大名誉教授脇本平也さんの著書『宗教学入門』にこんな説明がある。
 「思想や表現の、その根底にある宗教体験そのものは非合理的な側面を備えている。通常の概念や理論では割り切れないもの、つまり言葉では伝えきれないもの、教えられないものを含んでいる。このような体験の境地に到達するためには頭の中で思想の研究を積むだけでは不十分だ。むしろ、ただちに身をもって修行しなければならないということになる。こうして宗教思想は、当人の生きた体験や日々の生活行動にも深くつながってくる。そういうところに宗教思想は単なる知的認識としての哲学などとは違った、すぐれて実践的な特徴がある。哲学者の〈神〉は必ずしも宗教者の〈神〉ではないといわれるのはそのためだ」
 ●哲学の神は、概念や論理で説明される。しかし、宗教の神は、実践を通じて表現されるのだ。川口さんが学問上の勉強をしていなくても、宗教の神と近付くことはできるのである。むしろそれが宗教の王道なのだ。そのことをボクも肝に銘じねばならない。