251 宗教を科学する(37)信仰告白――イワシの頭も信心からーー

ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 251
251 宗教を科学する(37)信仰告白――イワシの頭も信心からーー

 さて、川口さんにもどろう。
聖書の次は教会だ。
「近くの教会に通うことにする。信者のみんなから植木鉢をいただく。愛の手を当たり前のように差し伸べて下さる。ありがたいことで、私も受けるばかりでなく、痛みも分かちあいたい。行動範囲も狭く、なにもできないが、せめてそういう気持ちだけはつねに持ち続けたい。」
●これまでとは見違えるほど謙虚な川口さんだ。信者のみなさんが送り迎えの介助をしてくれるらしい。

病気はいよいよ進み、ついに瞼が重くふさがって来た。最後の部分が侵されてきた。
「覚悟はすでにできてはいるが、目前になると、また違った気持ちに襲われる。呼吸をするのもつらくなる。吸うより吐くのが弱い。首は気を許すとすぐに前後に倒れる。泣き笑いが正常にできない。うつ病も相変わらず、不眠、いらいら、肩の凝り、頭痛。睡魔がおそうように瞼がふさがってくる。一日車いすで過ごすのはつらいが、たびたびベッドにはつけない。起き上がるのは母にとっても、私にとっても容易なことでない。」
●老いた母にいつまでも介護をさせるのは心苦しい、義妹にこれ以上気兼ねするのは死ぬほどつらい、とも川口さんは書いている。認知症の父親のこともある。入院するのがいいとしても、付き添いの人がいない、差額ベッドの料金も負担できない。川口さんの心情は察するに余りある。

自分が死ぬことはなんともないが、これから死ぬまでの間、介護してくれる老いた母の負担を思うとやりきれない。自分が死ぬのが一番、と書きながら、川口さんは思い直す。
「主は明日のことを思い煩うなと言われる.そのときが来れば必ず取るべき道を示してくれる。いまは耐え忍んで、いまやるべきこと、やらねばならぬことをせよ、と言われる。失ったものを数えるより、残されたものを生かそう。私には聞こえる耳があり、見える目がある。まだわずかばかりの機能が残されている。神に許された心がある。与えられた期間に私は祈り、願う」
●母と神を往来しながら、川口さんは悶える気持ちを抑える。

「動かぬ両手を使って一字一字唸り声を出しながらタイプを打つ。紙一枚打つのに二時間以上かかります。でも社会に隔絶されたいま、タイプに語り、打てることは唯一の喜びです。苦痛や辛苦には耐えられても意思の伝達が途絶えるのは死ぬよりつらいことです。神は私の祈りに必ず応えてくれる。自己中心的なものを捨てるとき、ささやかな願いが示されます。神の愛を身近に感じます。タイプを打つことに意義があります。考えていては疲れるので、ただ思いつくまま、胸のうちを打つだけでいいのです。」
車いすにすわっているのはしんどい、と川口さんは書いている。しんどい車いすで一日中、タイプを唸りながら打ち続けるしんどさはたいへんなものだろう。

「暖かくしてベッドで寝ながらテレビでも見て過ごす方が身体にもいいし、病人らしいし、楽です。そのように過ごしたいとも思います。でも、それでは悔いが残ります。生かされている喜びを少しでも味わって死にたいのです。神から与えられた使命を最大限に生かしたいのです。御心に沿って歩み続けます。」
●近いうちに死が訪れるのはわかっているのに、川口さんは気楽なベッドで横になるのではなく、苦しい車いすに座ってタイプを打ち続ける。神に語り続けるのだ。

身障者施設を退園後、1年足らずで川口さんは洗礼を受ける。車いすで牧師のまえにうなだれる川口さん。「洗礼志願の信仰告白」が代読される。集まった人たちの間からすすり泣きがもれるーー。
闘病記に収録されている「信仰告白」を読んだ。川口さんがタイプで打ったもので全文ひらがな。発病以来の経過がくわしく書かれ、キリスト教との出会いにつながっていく。10頁もある長文のなかから川口さんらしいと思われる部分を適当に要約して抜いてみよう。

「そんなある日、友が仲間を連れてきて、キリストにより救われた喜びを語り、入信をすすめた。けれど、私はそれは弱者の、イワシの頭も信心から、という類であると、心は動かなかった。今にして思えば、これは神の最初の呼びかけであったように思う。その後、マザーテレサの、神を信頼し、愛の奉仕に命を捧げる姿がえもいわれぬ感動となり、愛を受けるばかりの私の心を開かせてくれた。
日ごろからパンを与えるのみでなく、愛を与えてほしいと叫び続けてきた私に、一筋の光となって射しこんだ。何が彼女をこうまで言わせ、動かしているのか。一度キリストに触れてみよう。論理を探ってみてやろう。同じ死ぬならいろいろ経験するのも悪くないという高ぶった気持ち。
同時にひょっとすると別の世界が開けるのでないか、何かが得られるのでないかという期待と希望を持っていたのも事実だ。」
●疑いと期待、ダメでもともとじゃないか、とキリスト教に近づく雰囲気がよくわかる。それにしても具体的に背中を押したのはマザーテレサだった。理論より具体的な生きた証人の威力の大きさ。(つづく)