240 宗教を科学する(26) 負けん気と難病の激突

ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 240
240 宗教を科学する(26) 負けん気と難病の激突

 苦悩の大小は比較できない、とフランクルは書いている。ナチの強制収容所と、全身マヒで死にいたる難病の生涯とどちらが苦しいかもむろん比べることはできまい。40代のころ、北アルプスの帰り、時間待ちで入った高山駅前の小さな書店で『しんぼう』という題の闘病記をみつけた。著者の川口武久さんは32歳のとき、筋委縮症側索硬化症にかかった。全身の運動神経がつぎつぎマヒし、食べ物を飲み込むことさえできなくなり、発病後3,4年から7,8年のうちに死ぬという恐ろしい難病である。

自己主張が強くエネルギッシュで自我の塊のような川口さんは「負けるものか、なにくそなにくそ!」と運命に体当たりし正面衝突を繰り返す。運命を受け入れ和やかに日々を過ごす障害者たちに「のんびりしすぎだ。もっとがんばれ!」と見下したようなところもある。無神論者で世間体を気にし、はったりをかまし、女性にも関心が強そうだ。川口さんの病状は異例に進行が遅く、闘病生活は奇跡的に21年間も続いた。長生きした分、苦悩と煩悩と絶望の総計は多かったようにみえる。しかし、やがて運命と妥協し、神に近づき、安らかな心に帰っていく。大きな自我が小さな自我に磨きあげられていくプロセスが怒りといらつきを主調音に綴られている。

そのころ川口さんは千葉で奥さんと喫茶店を経営していた。健康自慢で毎朝二匹の秋田犬を散歩させていた。ある朝、突然足がもつれて転倒。このころから全身のだるさと右足にひきつけを覚えるようになった。奥さんもメニエール病の持病がある。子どもがいない。ふたりは川口さんの故郷の三重県名張の田舎で静養しようと話し合う。しかし、一代でマンションやドライブイン経営で財をなした頑固で強気の義父は猛反対。

川口さんは奥さんを家出させる。義父はかんかんになって捜索開始。発見されては大変と、奥さんをさらに香港へ隠す。そして自分だけが先に田舎に帰り、後に奥さんを迎えた。この作戦は成功したが、なんとも大胆な人だ。
そもそも奥さんとの結婚もストレートでなかった。そのころ川口さんは道路会社に勤務し、奥さんの実家の前の工事現場事務所に詰めていた。ほどなく奥さんと顔見知りになりデートを重ね、妊娠というコース。川口さんには田舎に結婚を約束した女性がいたのに。このときも奥さんは家出騒動を起こしている。
さて、名張に落ち着いた夫婦は旧友に駅前喫茶店の経営を任される。症状も小康状態で、二人とも「水を得た魚」のように楽しく働く。売り上げも伸びる。やっぱり水商売があっていると自分たちの喫茶店を持つプランを練る。

一方で猛烈な医者通いが続く。まくしたてるような川口さんの筆遣いを要約するとーーー近所の外科医の診察は椎間板ヘルニア。はじめのうち、看護師と冗談口をたたく明るい気分だったが、良くならない。
鍼灸院にも通う。ここでは坐骨神経痛の診断。休日には評判を聞いて四国、兵庫、大阪、名古屋の医者を訪ねる。
奈良医大を紹介され、一週間検査を続けたが、原因はわからない。「西洋医学がだめなら、東洋医学だってある。それもだめなら気力で治してみせる」と自分の方から退院を申し出る。

運転免許の更新にいき、失敗する。足の動きが鈍いのだ。無性に腹が立ち、その夜は大酒を飲み、翌日から反抗的に無免許運転を続ける。
一方で懸命に節制に努める。食生活にこまかく気をつけ、酒たばこをひかえ、足腰の鍛錬に励み、犬と一時間散歩し、青竹踏み、屈伸、腕立て伏せ、アレイやエキスパンダで汗を流す。
その後、千葉の義父と和解し、千葉に戻る。義父のマンションに住み、義父の知人の日蓮宗・大権僧正の道場で電磁波治療を受ける。「一週間で見込みはつく」、といわれ、経を読み、滝にも打たれ、精神的なゆとりは生まれたが、症状は相変わらず。

次に知事の紹介で千葉労災病院に入院。院長はじきじきに最善を尽くすと約束してくれ、検査を繰り返したが、やっぱり原因はわからない。さらに千葉医大病院へ。「難病かもしれない。田舎に帰って辛抱強く治療をつづけられたら」と親切な医師は言ってくれた。

再び名張に帰る。振り出しに戻って奈良医大へ。最初の診断通り、原因不明。
「こんなに医学は進んでいるのになぜ治療法がないのか」。
業を煮やして自分で医学書を読みあさり、医師に質問攻め。たまりかねた医師は神経科を紹介する。
神経科の医師は持参したカルテをみるだけで自分は診察せず、「医学のために役立たせてもらいたい」と研究生たちが入れ替わり立ち替わり川口さんをモルモット扱いに診察する。二度目の診察日も同じで、ついに川口さんは堪忍袋の緒が切れて早々に退散…。
別の鍼灸院、整骨医、外科医に通い、はては週刊誌に紹介されていた大阪クリニックの海ヘビの毒を使った治療を受ける。
これと並行して自宅ではベランダの人工芝がすりきれるほどの機能訓練。朝は犬2匹と妻で散歩。風呂上がりの柔軟運動。日蓮上人直筆の掛け軸を取り寄せ朝夕欠かさず御題目を唱える。暇があれば先祖の供養。
それでも徐々に全身のマヒは進んでいく。
こうして最後にたどり着いたのが京都の国立宇多野病院だ。(つづく)