239 宗教を科学する(25)死刑囚と態度価値

ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 239
239 宗教を科学する(25)死刑囚と態度価値

 先日、テレビをみていて、これもフランクルのいう「態度価値」なのか、と思わせられる場面に出会った。
死刑執行にまつわる遺族と死刑囚の心の動きを特集した番組で、多くの遺族は犯人の死刑が執行されて、はじめて心が落ち着く。被害者が生き返ってくるわけでないけれど、一応の「心のけじめ」がつくという。
死刑囚の方は刑が執行されるとき、抵抗して大騒ぎをしたり、反省の色もみせずさばさばと踏み板に向かっていく例などが伝えられた。
これらはまあ、ボクも常識の範囲内だったが、ちょっと変わったケースもあった。

その遺族は弟を殺された初老の男性で、犯人が死刑に確定した後も、なぜ弟を殺さねばならなかったのか、その理由を犯人から直接に聞きたくて面会に行った。犯人はひたすら謝った。何回か面会をし、遺族と死刑囚の間で手紙のやりとりもあった。とはいえ男性は犯人を許す気にはならなかった。ただ犯人と交流することでーー弟の生死を話題にすることで、亡き弟が浮かびあがってくるような心境になるというのである。

それがある日、むろん遺族に連絡もなく死刑が執行された。弟を話題にしたり、弟の生死や無念を考える手掛かりが無断で奪われてしまったというのだ。許す、許さない、という問題でなく、あの死刑囚は生かしておいてほしかった。そして交流を続けたかった。犯人のためにではなく、遺族の立場から残念だ、と男性は話した。

法的、専門的ななことはさておき、この遺族の心情はボクにはわかる。生身の死刑囚に詰めより、説明を求め、ときには憤慨し、なじることもあったかもしれない。しかし、許す、許さない、とは別の次元で両者の間には人間的な感情が往来したことであろう。
そして、その死刑囚は死刑執行に先立ち、「罪滅ぼしに何かしたいが、自分には何も出来ない。せめて自分の死後、遺体は必要な人のために使ってほしい」と献体を申し出たという。
ボクが「態度価値」だというのは、このことである。
フランクルは、瀕死の重病人でも態度価値によって人生に意味をみつけることができる、と書いたが、この死刑囚は死んだのちにも、自分の人生の意味をみつけ、社会に生かすことができたというべきだろう。

もう3,40年前になるが、テレビで信州の寝たきり男性と少年の出会いを見た。あれも「態度価値」になるかもしれない。うろ覚えだが、その初老の男性は若いころ難病で全身マヒになった。体で動かせるのは「まばたき」だけだ。町工場を経営する両親と弟の四人暮らし。さまざまな宗教関係者がやってきたが、男性は受け付けない。親は何度か一家心中を思った。

ある日、母は五十音図の表を長男に示した。長男は唯一動く「まばたき」で該当する文字に反応する。こうして母子のコミュニケーションが成立した。
長男はやがて五十音図で短歌を表現するようになり、母がそれを書き写し、キリスト教新聞に投稿した。長男の短歌はしばしば新聞に掲載され、評判は広がった。母の死後、弟の奥さんが母の代役を引き継ぎ、歌作りはずっと続いた。

初老になった寝たきり歌人のもとにある秋の日、小学校低学年の少年とその両親が訪れた。少年は体に障害を持ち、いずれ失明の危険があるという。「寝たきりでもあなたの歌は明るく美しく勇気づけられます。息子はやがて失明し、つらい生涯を生きねばなりません。どうすればあなたのようになれるのでしょうか。教えてやってください」というのが両親の願いだった。

歌人はしばらく思案した後、五十音図を通じてこう言った。
「いいかい、坊や、人と自分を比べないようにね」
それから間を置いて「道端の草花は人に見られないけど、黙って咲いている。神様に向かって咲いているのだよ。坊やも神様に向いて生きていってください」
記憶違いもあるかもしれないが、テレビには後年の坊やも登場し、寝たきり歌人の鮮烈な印象を語っていたように思う。

歌人の弟さん一家のなごやかなシーンも紹介された。
歌人は自然の風景や草花が大好きだが、自力では接することができない。弟さんの二人の子どもーー甥と姪はまだ小学生だが、登校の行き帰りに季節の草花を摘んで歌人の枕元に置く。季節の変わり目には、歌人の枕元の縁側を開け放ち、庭の自然を見せてあげるようにする。廊下に鉢植えの木や花を並べてあげる。
自然の風物だけでない。二人は学校から戻ってくると、まずおじさんのところにきてその日学校であったことを報告するのだそうだ。

いま、ふと思う。
歌人は寝たきりの身の上なのに、フランクル流にいえば、人生に意味をもたらす三つの価値をすべて実現しているのだった。
作歌によって創造価値を、自然を愛でることで体験価値を、そして態度価値はーー彼のおおらかで信じ切った風姿から何か人生の大切なものを子どもたちは感じ取っているに違いないとボクは信じる。