238 宗教を科学する(24) 創造価値・体験価値・態度価値

ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 238
238 宗教を科学する(24) 創造価値・体験価値・態度価値

強制収容所の悲惨を経験し解放されて帰ってきた仲間たちに、世間の人は「私たちも苦しんだ」と肩をすくめる。元囚人たちはそれを責任逃れとみなし、「自分たちの味わった苦悩ほど大きな苦悩はこの世にはないのだ」、と憤怒する。
こういう元仲間たちの心情を理解しつつもフランクルは一歩ひきさがって精神医学者らしく「苦悩に大小の比較はできない」と分析する。
人はその時々の苦悩でだれも心がいっぱいになるのだ。大きい苦悩に対しても、小さい苦悩に対しても。

ひとりひとりの人間が唯一で一回的な存在であるように、その人の苦悩もまた唯一で一回的なものだ。しかもだれの人生も苦悩とセットになっているとすれば、人は生涯にわたって降りかかる苦難に対してそのつど対応していかねばならない運命にある。生きて行くことは人生からの問いに答えていくことにほかならない。その答え方は一般論では通用しないと、フランクルは二つの例えをあげている。
:チェスのチャンピオンに「ところで先生、どんな手が一番いい手でしょうか?」と聞くのはいかにもトンチンカンだろう。相手の出方に応じていい手は考え出されるものだ。
フランクルの講演会場へ1人の青年がかけつけ、「今晩、婚約者の両親のところにに呼ばれて、あなたの講演を聞くことが出来ません。お願いです、講演テーマの〈生きる意味〉とは何でしょうか、簡単でいいので…」と尋ねたという。万人共通の簡単ノウハウなどはない。これもそれぞれの人がそれぞれの局面に応じて紡ぎだしていくものだ。

つねに具体的にというのがフランクル流のようだ。生きる意味・苦悩の問題も〈ここ〉〈いま〉〈この人〉にとって、というそのつどの一回性と唯一性が重視される。それがその人の人生を意味あるものに構築していくのだ。人生の課題そのものとか、生きる意味そのもの、というものは存在しないのだ。このあたりはちょっと強引にみえるが、フランクルの別の著書『死と愛』にこんなくだりがある。

「人間は形のない石にノミと槌とで細工し、素材がしだいに形をとるようにする彫刻家に似ている。すなわち、人間は運命が与える素材に加工するのである。あるときは創造しつつ、ある場合は体験しつつ、あるいは苦悩しつつ、彼は自分の生から創造価値であれ、体験価値であれ、なしうる限り諸価値を刻み出そうとするのである。彼はその芸術作品を完成するのに限られた時間でしなければならない。作品は未完成に終わるかもしれないが、1人の人間が生きた〈ロマン〉はかって書かれたどんなロマンよりも比較にならないほど偉大で創造的な業績なのである。」
人間を、運命を素材に彫刻する存在、にたとえているのはわかりやすい。運命には当然苦難や苦悩も含まれているのだ。

フランクルは人生を意味あるものにする三つの価値を論じている。
第一に創造価値。何かを行い、活動し、創り出して仕事を実現する。広く物や精神の生産活動とその生産物を通して表現する。芸術作品もここに属する。
第二は体験価値。外にある価値を自分の内側に導くことだ。何かを体験する、自然や芸術に親しむ。人を愛する…。「こんな人がいるだけでも世界には意味があり、この世界で生きている意味がある」と思わせる人と出会う、読書で知る。
第三が態度価値。フランクルは三つの価値の中でもこの価値をもっとも重視している。モノを創り出す能力(創造価値)もない、モノに接する機会(体験価値)もない。二つの価値から縁がなくても、最後まで残されているもの、それが態度価値だ。

たとえば強制収容所の囚人、あるいは病人のような自分の可能性が厳しく制約され、変えることのできない運命に対したとき、人はどんな態度をとるか、でこの価値は示される。苦難の中における勇気、人間性、品性といったものである。『それでも人生にイエスと言う』のなかにつぎの例があげられている。

有能な広告デザイナーの若い男性が突然仕事を断念せざるを得なくなった。脊髄に悪性腫瘍ができ、手足がマヒしたのだ。病院で横になりながら男性は猛烈に読書を始める。以前、仕事が忙しかったときに時間がなく読めなかった書物に取り組んだ。ラジオ音楽を楽しみ、他の患者さんと活発に話した。社会活動(創造価値)を離れたが、受け身になって外の世界を自己に取り入れることで(体験価値)、人生が出す問いに答えたのだ。
男性はやがて、書物を手にすることもヘッドホンをつけることも、また話すこともできなくなった。創造価値も体験価値も、もはや実現できなくなったのだ。重病患者の彼はもう何も出来ないのか? いやそうではなかった。態度価値で立派に人生の問いに答えたのである。

ある夜、当直医のフランクルが回診にいくと、彼は話すのに苦労しながら、こう伝えた。「午前中の院長回診のときに聞いて知ったのだが、G教授が、死ぬ直前の苦痛を和らげるため、死ぬ数時間前に私にモルヒネを注射するように指示したんです。今夜で私はおしまいです。いま、その注射を済ませておいて下さい。そうすればあなたは宿直の看護婦に呼ばれてわざわざ私のために睡眠を妨げられずにすむでしょうから」とじつにさりげなくいったという。

フランクルは感動的に「この患者が生きていたら、すばらしい広告デザイナーになっただろう。しかし、世界でいちばん立派で美しい広告デザインも、死の数時間前に示したこの人間らしい業績にはおよばなかっただろう」とエピソードを結んでいる。(つづく)