237 宗教を科学する(23) 強制収容所を上回る新しい苦悩と不幸!

ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 237
237 宗教を科学する(23) 強制収容所を上回る新しい苦悩と不幸!?
 
フランクルの記録したアウシュビッツ強制収容所の囚人たちの心の動きをたどる。
ただショックの第一段階、苦悩にあえぐ第二段階。それに続く第三段階は解放後の囚人たちの心理状態である。人間とはふしぎな動物だ。苦悩の塊のような地獄から自由になったというのにそこではすでに苦悩の新しい火種が生まれようとしていた。

 ▼第三段階
突然の銃声と砲声がしばらく続き、やがておさまった。強制収容所に白旗がひるがえった。連合軍がやってきたのだ。解放の日がふいに訪れた。囚人たちは自由になった。門に向かおうとする。しかし、よろよろと足がほとんどいうことをきかない。仲間同士、おずおずとあたりを見回し、お互いの目を見合わせながら、門を踏み出す。監視兵たちの命令も拳骨も足蹴もない。それどころか、監視兵たちは一般市民の服装に早変わりしており、元囚人たちにたばこを差し出そうとする動きさえあった。
あんなにあこがれていた自由の身の上。なのにその実感がわかない。
牧場にさしかかった。花が咲き乱れている。きれいな色の尾をもつ1羽の鳥がいた。はじめて小さな喜びの火花が飛んだ。しかし火花は一瞬で消えた。元囚人たちには何の表情も表れない。

夜になると、元囚人たちはそれまでの掘立小屋に戻ってくる。一人がそっと仲間につぶやく。「きょうはうれしかったかい?」。するとカレは「本当のことを言うとそうではなかったよ」と恥ずかしそうに答える―――じつは多くの仲間がそうだったのだ。医学用語を使えば、著しい「離人症」にかかっていたのである。あらゆるものは非現実的であり、単なる夢のように思われるのだ。

その時期が過ぎると、抑圧されていた反動で当たり散らす仲間が出てくる。フランクルと1人の仲間が収容所に向かって野原を歩いていると、麦畑に出た。麦は芽を出したばかりだ。フランクルはそこを避けようとした。しかし仲間はフランクルの腕を引っ張って畑に突き進んだ。「若い芽を踏みにじるのはよくない」と口ごもるフランクルに彼は怒鳴りつけた。「何を言う!俺は妻も子供もガスで殺されたのだ。それなのにお前は俺がほんの少し麦わらを踏みつけるのを禁ずるのか!」
これまで囚人は権力、暴力、不正、恣意の被害者だった。それが今度は自分たちが加害者になろうとしている。その当然の権利があると思っている。
別の仲間は右手を突き出して「俺は家に帰ったら、その日必ずこの手を血まみれになるようなことをしてみせるぞ!」といきまいた。

さて実際に故郷に戻ってきた仲間たちがつぎに直面するのは「不満」と「失望」である。フランクルはこう書いている。
「1人の人間が家に帰ったが、あちこちで会う以前の知り合いたちは、ただ肩をすくめるか、〈私たちは何も知らなかったのです…〉とか〈私たちも苦しんだのです…〉。そんな安っぽい決まり文句をいうだけだ。〈ほかに何か言いようがないのか!?〉と彼はひどく不満になる。その不満は彼に自分はいったい何のために収容所で耐えてきたのだろうかという疑問を抱かせる」
知り合いたちの誠意のなさそうな、通りいっぺんの、うわべだけの言動。それはどうみても自分が経験したあの苦難にふさわしくないのだ。というわけで彼の不満はしだいに怒りをつのらせていく。

失望の場合はもっと深刻だ。
収容所時代、生き抜くバネとなるのは人生が彼を待っていること…、たとえば1人の人間が彼を待っているという意識、想定、目的が必要だとフランクルは仲間たちを勇気づけた。そうして耐え抜いた仲間の多くは、しかし家に帰ってもだれも彼を待っていないことを知らされる。愛する人はもはやこの世に存在しなかったのだ。いや、フランクル自身もそうだ。両親も妻も二人の子供も家族全員が同じアウシュビッツ強制収容所でガスで殺され、餓死した。解放されたあとそれを知った。彼が収容所で唯一の心のよりどころにしていたもの…。あの架空会話で話し合った妻の笑顔も現実世界ではもう見ることはできない。じつは架空会話をしていたとき、すでに妻はガス室で殺されていたのだった。収容所を耐え抜くことができたたったひとつの心のよりどころを失ったいま、自分はどうすればよいのか。

別のケースもある。
カレは収容所で平穏だった日常生活のいろいろなシーンを思い浮かべ、家に帰る日を夢見て苦難に耐えてきた。市電に乗り、あのわが家の前で降り、玄関の呼び鈴を押し…。しかし、実際に解放されて戻ってきたわが家では呼び鈴を押してもドアを開けるはずの人間がドアを開けないのである。その人はもはや決してカレのためにドアを開けてくれないであろう…。カレを待ってくれているはずの人はカレ以外の人間を見つけたのかもしれなかった。

収容所で悩み苦しんだことを償ってくれるいかなる幸福も地上には存在しない。一方で収容所時代を上回る新しい苦悩と不幸に直面しようとしている仲間も少なくない。フランクルはこう書いている。
「カレは数年来考えられる限りの苦悩の深い底に達したと思っていたのである。しかし今や彼は苦悩というものが底無しのものであり、何らの絶対的な奥底がないものであることがわかったのである」(つづく)