236 宗教を科学する(22)「快楽への意志」より「意味への意志」 

ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 236
236 宗教を科学する(22)「快楽への意志」より「意味への意志」 

人間はなにより意味を求める動物だ。そこに意味を認めれば苦悩にも、厳しい人生にも耐えて生きていけるーーこれが強制収容所フランクルが得た思想の核心だ。その経緯を『それでも人生にイエスと言う』の訳者、山田邦男・大阪府立大名誉教授が同書の解説に述べている。これを参考にフランクルの「意味への意志」の考え方を要約しよう。

フランクルは別の著書で自分の立場をフロイドなどと比較し次のように書いている。
「フロイドは、人間はいわゆる快楽原理――快楽への意志によって左右される存在といい、アドラーは権勢欲つまり力への意志によって規定される存在とした。しかし、実際には人間は意味への意志によって最も深く支配されている。それは一般の診察室でも、さらに強制収容所という極端な〈限界状況〉にいたるまで共通する。意味への意志こそが人間に最悪の事態を耐えさせ,最後の努力を払わせる」

「快楽への意志」が個人の性的・生理的な欲求に基づくのに対し、「力への意志」は人間が社会的存在として自他を比べ、他人たちに優越しようと努力する。人間がこれらに支配される面があるのは事実だが、それだけでは満足し得ないとフランクルはいう。
簡単にいうと、この二つの意志は人間がいわば「生きるためのもの」であり、人間が「生きるのは何のためか」という視点がない。
言い換えると、二つの意志はすべては「われ・われわれのため」のものだが、それではその「われ・われわれは何のためか」という問いが欠落している。この問いに向き合わざるを得ないのが人間だ。

フランクルは言う。
「人間は自分の人生を意味あるもので満たしたい。生きがいを求めて努力することで生きる意味を、生きる目的を闘い取っていこうとする存在だ。」
前の二つの意志が、いわば生きる手段の追求であるのに対し、「意味への意志」は、生きる意味、生きる目的の追求だ。ひとりひとりの実存的欲求といえる。

それでは「意味への意志」はどのようにして実現されるのだろうか。
ここで登場するのが232回に紹介したコペルニクス的転回である。
 生命の意味について、問いの観点を変える。従来の「人生から何をわれわれは期待できるか」ではなく、逆に「人生が何をわれわれから期待しているのか」へ発想を変換するというあれだ。
 
ふつう、私たちは生きる意味を「人生から何を期待できるか」と自分中心に考える。しかし、こんな見方はたとえば強制収容所のような状況では通用しない。生きることに耐えられない。見渡す限り、人生は絶望に包まれているからである。だから囚人の精神は壊れた。
とはいえ、ハイデガーのいうように「われわれの存在はすべて死への存在」とすれば、これは何も収容所に限ったことでない。生きることは、基本的に絶望に突き当たる。もしわれわれがいま、「生きる意味」を見いだせないのならば。

「意味への意志」とは、まわりの外的状況は絶望的で生きる意味など見えなくても、自分の内側から生きる意味をみつけようとする努力、闘いをいうのだ。『夜と霧』には強制収容所内でのこうした例がいくつかあげられている。
収容所から解放される日をひたすら待ち望んで、根拠のない情報やうわさに一喜一憂し、希望と失望を繰り返しながら衰弱し病死したり、自殺する囚人が絶えなかった。クリスマスから新年にかけて大量の死亡者が出る。この原因は収容所の医長の説明では、過酷な労働条件や悪化した栄養状態、新たな伝染病のせいではなく、単にクリスマスには家に帰れるだろうという素朴な希望と、それが裏切られた失望のせいだという。

そんなとき自殺を企てようとした2人の囚人がいた。フランクルコペルニクス的転回の持論で思いとどまるように説得した。その具体的なやりとりは明らかでないが、フランクルはこう書いている。

「2人とも〈もはや人生から何ものも期待できない〉という典型的な言い方で自殺を企てると述べた。しかし、〈人生は彼らからまだあるものを期待している〉、すなわち人生におけるあるものが未来において彼らを待っているということを示すのに私は成功した。1人は愛するひとりの子どもが外国で彼を待っていた。もう1人は科学者でシリーズ本を書いていたが、完結本がまだできていなかった。2人にはかけがえのない唯一性、独自性をもった愛や仕事が待っており、責任を担っていた。その責任を意識した人間は彼の生命を放棄することが決してできないのである」
 自分を待つ何かがあり、その責任を意識した時、カレの生きる意味がみつかったのである。
〈苦悩は生を活性化させる〉というのがフランクルの考えだ。次回は苦悩と生きる意味について考えてみよう。(つづく)