235 宗教を科学する(21) 強制収容所の苦悩と失恋の苦悩と

ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 235
235 宗教を科学する(21) 強制収容所の苦悩と失恋の苦悩と

ひとくちに苦悩といっても2種類あるらしい。人間らしいものと、そうでないもの。そして人間はつねに人間らしい苦悩をのぞむ存在だとフランクルは次のような趣旨を述べる。

破れ靴の中で泥だらけになっている傷ついた足の痛みに泣きながらひどい寒さと氷のような向かい風の中を私は囚人たちと数キロ離れた労働場まで長い縦列をなしてよろめいて行進していた。行進しながら私は何を苦悩していたか。
私の苦悩の中身はーー。

:夕食で与えられるであろう一片のソーセージをパンの一斤と取り換えたほうがよいだろうか?
 :二週間前に私に報償としてとくに与えられた最後の煙草をスープ一杯と取引すべきだろうか? 
:切れてしまった靴紐のかわりに鉄条網の切れ端をどうやってみつけようか? 
:労働場で私がよく慣れたグループに入れるだろうか? それとも怒りっぽい監督のグループにいれられて殴られるだろうか?
:苦しい行進をして労働場へ来るより、収容所内で労働できるように囚人頭に取り入る方法はないだろうか?
:今夜のスープは底の方の少しは具のある部分をあてがわれるだろうか?

そしてこう書いている。
「当時、私たちは食べるとか腹をすかすとか、凍えるとか眠るとか、ミツバチのように働くとか殴られるといった人間にふさわしくない問題ではなく、ほんとうに人間らしい苦悩、ほんとうに人間らしい問題、ほんとうに人間らしい葛藤にどれほど恋い焦がれたことでしょう。私たちは、どれほど悲しく切ない思いで、動物のような苦痛や危険ではなく、人間らしい苦悩や問題、葛藤がまだあったころを回想したことでしょうか。将来に対してもそうでした。私たちは、苦悩や、問題や、葛藤なしには生きていけないような状態をどれほど切望したことでしょうか。たしかに苦悩しなければならないけれども、とにかく人間にふさわしく意味のある苦悩が課せられている状態をどれほど切望したことでしょうか」
非人間的な絶望の中では自由だったころの人間的な苦悩さえも快く思い出されるものらしい。
一方で世の中には「苦悩できない」人だっているという。たとえばーー。

:梅毒に感染した人はいったん治癒してものちに一定の確率で脳のマヒが再発する。梅毒が治癒した人もそれをひどく恐れる。ときには恐怖のあまり病気やノイローゼになるほど苦しむが、そういう人も実際にマヒが再発すると、とたんに恐れなくなる。けろりとマヒを忘れてしまう。マヒで快適な気持ちになり、「苦悩できなくなる」という症状を伴うのだ。
:こういう重い病気の患者に医者は診断結果をストレートにはいえないが、このマヒ患者には気を遣うことはない。もしはっきり告げたとしても患者は「診断が間違っている、冗談でしょう」と笑うだけだ。「きちんと話をすることもできない」といっても患者は気分よさそうに平然と「自分の言語障害は歯が悪かったり歯並びがおかしいからだ」と責任転嫁する。
フランクルの勤務する精神病院に年配の母と若い娘がはいってきた。母は嘆き悲しんでいる。娘が慰めている。患者に質問しようとフランクルが母の方へ向き直ると、なんと患者は娘だった。入院の手続きに来たのだが、娘は自分の運命に冷静、むしろ無感動なのだった。
:かと思えば、苦悩できないそのことに苦悩する特殊なうつ病患者もいる。彼には悲しみや不安、喜びもないが、同時に「苦悩も感じない。泣くことさえできない」と訴える。

フランクルはいう。苦悩できないことに苦悩し絶望する患者の訴えは、診察する側からいえば、人間最大の絶望のひとつだ。なぜなら、人間の意識の深い奥底で苦悩は人生の一部だということが医学的に知られているからである。苦悩とセットになってそれぞれの人生がある。苦悩のない人生なんて…。
フランクルがここで強調したいのは「苦悩もまた人生の一部」だということである。すこし考えれば当たり前のことで、ボクのまわりを見渡しても、苦悩を持っていない人は一人もいない。しかし、このように苦悩を真正面から取り上げ、人生の一部、と突き付けられるとたじたじと改まった気持ちになる。
アウシュビッツ強制収容所の苦悩をより一般化、普遍化するためだろうか、フランクルは、「苦悩が人生の一部というとみなさんは奇妙に思うかもしれないが、たとえばーーー」と、わかりやすい失恋を例にあげて読者に問いかける。

「あなたは過去の人生から、たとえば恋愛生活から悲しい体験=失恋の記憶を全部消してしまいたいとおもうだろうか。そのとき苦しみ悩んだ出来事、〈苦悩の体験〉のすべてがなかったらよかったとおもうだろうか」と。

たしかに失恋は苦しいが、輝かしい青春のワサビのようなものかもしれない。失恋のない人生はたぶん、貧しいことだろう。失恋の記憶を自分史から削除してしまいたいと願う老人はいないだろう、と老人のボクはおもう。失恋の苦悩がボクの人生の一部を構成しているように、強制収容所の苦悩もまた囚人たちの人生を構成しているというのである。次回以降は苦悩と人生の意味についてのフランクルの考えを聞こう。(つづく)