233 宗教を科学する(19) ボクが強制収容所に入れられたら…?

ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 233
233 宗教を科学する(19) ボクが強制収容所に入れられたら…?

 JR尼崎の脱線事故のとき、宗教関係者らしい人の慰めに、遺族の一人が、「神に愛されなくてもいい。子どもが元気に戻ってきてほしいだけだ!」と怒鳴っているシーンがテレビに写っていた。

229回に紹介した『なぜ私だけが苦しむのか』でもユダヤ教教師のクシュナーが、「じつにたくさんの人々が心に痛みを抱きながら日々を生きているだけでなく、その人たちに対して宗教はあまり役立っていないということを知った。私のところには次々と、牧師や神父、あるいは同じ信仰仲間の言動に以前にも増して心の傷が大きくなったという手紙が寄せられる」と書いている。

その理由は「悲劇も本当はよいことであるし、不幸に思えても本当のところは神の偉大なご計画の中にあるのだ」とか「長い目でみればこの経験がいつかあなたをよりよい人間にしてくれる」「あなたに与えられた多くのものに感謝しなさい」「神はほんとうに無垢で美しい者だけを天国に召される」とかの慰めの言葉が逆効果なのだという。ボクの親戚にもそういう布教のされ方をして憤慨ししていた人がいる。
 
フランクル強制収容所の体験記には宗教も神もほとんど出てこない。しかし、「苦しみ」が「生きる意味」を問ううえで重要なのだということが繰り返されている。それがあまりに強調されるので、つい、「苦しみは必要なのだ、お前も苦しみなさい」、と強要されているような、宗教の押しつけに似たものを感じてしまう。むろんこれはボクの間違いで、アウシュビッツ強制収容所には「言語を絶する苦しみと絶望」しか存在しない。その中でフランクルは「生きる意味」を問い続けているのだ。「苦しみ」はいわば、人生は生きるに値するかを探るリトマス試験紙なのだ。

あるエピソードが紹介されている。
強制収容所ではどんな小さな窃盗でも絞首刑になる取り決めがあった。
ある日、餓死そうになった1人の囚人が倉庫に侵入してジャガイモを盗んだ。やがて露見し、収容所当局は犯人を引き渡すように要求してきた。引き渡さなかったら全員に1日の絶食を課するという。犯人はわかっていたが、2500人の囚人は仲間の絞首刑より自らの絶食を選んだ。
絶食日の夕方、みんなは寒さと飢えといらいらで不機嫌に掘立小屋に横たわっていた。悪いことに停電になった。みんなの不機嫌は最高潮に達した。このときフランクルと同じブロックの聡明な囚人代表は話題をかえるために最近病死したり、自殺した仲間について話し始めた。そして「彼らの死の理由はいずれにせよ自己放棄だ。次の犠牲を防ぐにはどうすればいいのか、その説明をみんなにしてほしい」と精神医学者のフランクルに振り向けて来た。

フランクル自身も飢えといらいらで不機嫌だった。話せる気分ではなかった。しかし、力を振り絞って囚人仲間たちに大要つぎのように語りかけた。

「われわれが生きのびる可能性は5%ほどだろう。だが、あすのことはだれもわからない。もっと待遇のよい別の所に送られることがあるかもしれない。
一方、いまの暗黒の日々に光のように射しこみわれわれを慰めてくれる過ぎた日の思い出の数々。豊かな体験、行為、苦悩さえも現在によみがえり、まぶしく喜びに満ちている。これらは何ものも、何びともわれわれから取り去ることはできない。そして大事なことはそうした過去は永久に現在に組み込まれている。過去であるがゆえに、永久に確保され、もっとも確実な存在として現在に生きているのだ。」

「人間の生命はいかなるときも意味を持つ。その意味は苦悩と死をも含む。いまのこの困難なとき、あるいは近づきつつある最後のときにわれわれ一人ひとりを、だれかが求めている、見守っている。一人の友、一人の妻、一人の生者、一人の死者…そして一つの神が。その者はわれわれが彼を失望せしめないことを期待している。われわれが哀れに苦しまないで誇らしげに苦しみ死ぬことを知っているようにと期待しているのだ」

「われわれの犠牲も意味を持つ。囚人仲間の一人は信仰を持っていたが、天に願った。自分の苦悩と死の代わりに、自分の愛する人間から苦痛に満ちた死を取り去ってくれるようにと。彼にとっては自分の苦悩と死は無意味なのではなくて犠牲として最も強い意味に満ちていたのである。意味なくして彼は苦しもうとしなかった。同様にわれわれも意味なくして苦しもうとは欲しないのである。」

話が終わるころ、停電がなおり電灯がともった。目に涙をためたみすぼらしい囚人仲間がよろよろとフランクルに近づいてきた。感謝をいうためにだ。フランクルの話はある目的を達したのだ。

――そうだ、過去もプラス思考で絶望の現在を中和してくれるのだった。
過ぎた日々はゼロではなく、光のように現在に射しこむ。その限りでは過去もまた現在に組み込まれている。そしていったん過去の枠に登録されたものはだれによってもかき消されることはない。永久に自分に確保されている、などというくだりが、当たり前のようではあるが、印象深かった。苦悩や死の彼方に広がる永遠性と個別性、そしてある宗教的なものが感じられた。ボクも強制収容所に入れられたら、この手で耐えてみよう。(つづく)