232 宗教を科学する(18)ボクが人生に期待する、人生がボクに期待

ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 232
232 宗教を科学する(18)ボクが人生に期待する、人生がボクに期待する

希望も目的も失った囚人たちはどんな励ましの言葉にも反対し、どんな慰めにもそっぽを向く。何事にもがんばろうとしない。そのとき、カレが使う捨て台詞めいた決まり文句はこうだ。
「私はもう人生から期待すべき何ものも持っていないのだ」

強制収容所という極限状況にいる囚人たちにとって無理からぬ言葉だと思うが、フランクルはここでわれわれの人生観を逆転させよう、とアピールする。すなわち「人生から何をわれわれはまだ期待できるか」を問題にするのでなく、逆に、「人生が何をわれわれから期待しているのか」、を問題にしようというのだ。フランクル自身、これを発想の〈コペルニクス的転回〉と書いている有名な個所らしいが、ボクは一度読んだだけではすんなり入ってこない。

続いてフランクルはこう書いている。
「われわれが人生の意味を問うのではなくて、われわれ自身が問われた者として体験されるのである。人生はわれわれに毎日毎時問いを提出し、われわれはその問いに、詮索や口先ではなくて正しい行為によって応答しなければならないのである。人生というのは結局、人生の意味に正しく答えること、人生が各人に課する使命を果たすこと、日々の務めを行うことに対する責任を担うことにほかならない。」
(余談だが、ノートルダム清心学園の渡辺和子理事長が情報誌に似た趣旨を書いていた。〈思い通りにならない難局のとき、「なぜ私だけが」と後ろ向きに原因を究明するのでなく、「何のために私に与えられているのか」と置き換えることで前向きに道が開ける〉と。)

さて、ある例えを思いついた。ボクは人生という川の流れに立っている。いろんなものが通り過ぎる。何を取ろうか。ボクはきょろきょろ見回しながら物色し、好みのものを取ろうとする。逆に嫌いなもの、いやなものが流れてきたら避けようとする。その取捨選択の主役はあくまでボクだ。―――これがいままでのボクの生き方だった。

むろん思い通りにはいかない。学校の成績はよくならないし、好きな女の子には失恋するし、家は破産し肉親の悲しい死にも出会っている。親が有名で金持の家に生まれたら、小泉進次郎のように勉強が出来なくても、アメリカの大学に留学してカッコとハクをつけ、世襲で当選し自民党議員になって苦労知らずのまま、もてはやされるのに。ボクもああなりたいなあ、と思うこともある。
これも運命だ。なぜこうなのか、科学でも答えは出せまい。
しかし、ここで拗ねてはいけない。絶望してはいけないのだ。

フランクルコペルニクス的転回を適用すると主役はボクから人生に移行し、こんなシーンに変わる。
ボクは川の淵にはまり込み、出られない。人生は上流から次々いろいろなものを流してくる。嫌いなもの、厭なものが流れてきても、ボクは避けられない。逃れようがない。(ボクがボクの意思でこの世に生れてきたのでないように)好き嫌いで取捨選択はできない。人生はボクがそれらのモノをどう処理するか、を見守っているのである。ボクは生命を与えられた。その生命の意味をボクはどう考え、理解しているのか。その答えを聞くために人生はモノを流しているのだ。ボクは知恵を絞り、経験を振り返って一つ一つモノを処理していかねば、応答していかねばならない。それを生きる義務と心得たとき、明日のない囚人たちにも未来に向かってある目的が発生するとフランクルはいうのである。

すなわち「もはや人生から期待すべき何ものも持っていない」でなく、「人生が何をわれわれから期待しているか」がテーマなのだ。与えられた条件の中でわれわれは正解を出さねばならない。それを期待されている。答えを模索する過程に囚人に未来と目的が生まれ、この世=収容所に耐える力が培われるというのである。

でも、なんでワイがそんな過酷な役割を演じねばならんのだ、不平と不満と不平等への怒りがまたもやボクにはもたげてくる。以前も何かそんな気分になったことがある。そのとき、なんとなく納得してしまったのは作家玄侑宗久さんの文章だった。正確には忘れたが、だいたい次のような趣旨だった。

「人間の身体には人様にお目にかける一番目立つ部位、つまり顔もあるが、だれにも注目されない足のかかと(踵)もある。顔は本人も気にして手入れをするが、踵は生涯日陰暮らし、ほったらかしだ。しかし、踵は必要ないのか、といえばそうではない。踵がないと歩くことも出来ない。顔も踵も役割機能が違うだけで、どちらも人間にとって欠かすことができない重要なものだ。人間にも顔のような役割の人、踵の役割の人、とある。踵の役割の人は注目されない場所にいるが、宇宙や世界や社会にとってやはり欠かすことのできない重要な役目がある」

腐った気分のとき、ボクはこの言葉を思い出し、カカト型人間の自分に、しぶしぶ納得するのである。
フランクルほど「生きる意味」を「苦悩」との関わりの中で徹底的に追求した精神分析学者はいないと評されている。次回も引き続き、フランクルの著書からーー。(つづく)