230 宗教を科学する(16)強制収容所の悲惨を救った妻との架空会

ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 230

230 宗教を科学する(16)強制収容所の悲惨を救った妻との架空会話 

フランクフルの『夜と霧』はナチスによるユダヤ強制収容所の体験と思索を綴った名著として名高い。飢餓、ガス室、重労働、拷問…。言語を絶する苦しみの中で無力な人々は何を考え、どう対応したのか。心が萎えたとき、ボクは本書を開いて自分の悩みや苦しみなど毛ほどでもないことを再確認し、自分を嘲るように叱咤してふと安心するのである。

フランクルが妻と交わす架空会話のシーンがある。
病気と空腹と厳寒の早朝、重労働の作業所へ監視兵の銃で脅されながら囚人たちは行進する。足の傷を隠し隣の囚人に支えられるようにして歩く人もいる。怪我や病身とわかるとたちまちガス室行きになるからだ。
フランクルの隣の囚人が突然つぶやく。
「なあ君、もしわれわれの女房がいまのこの様子を見たらどう思うだろう!彼女は何も知らないといいのだが。それに彼女の収容所の待遇はわれわれよりもっといいだろうね」
妻たちもまたナチスに捕まり、別の強制収容所に入れられている。しかし、そこはもっとましだろうと夫としては思いたいのだ。

フランクルの前に妻の面影が立った。彼は妻に語り始める。彼女は微笑して何かを話し返す。彼を励まし勇気づける眼差しだ。それからかつての日常の暮らしぶりがつぎつぎ彼の脳裏を通り過ぎる。それは決して重大な出来事の類ではない。市電に乗って家に向かう、入り口のドアを開ける、電話が鳴る、受話器を持ち上げる、部屋の電灯のスイッチを入れるーー。なんともささいな思い出に胸が熱くなる。

それから何キロも彼と隣の囚人は雪の中を渡り、凍った場所で滑り、何度も互いに支え合い、転んだり、ひっくり返ったり、よろめきながら、二人は何も語らなかった。しかしお互いにそれぞれ妻の事を考えているのが分かっていた。

フランクルは感動を込めて書き続ける。悲惨と絶望と呪いに刻まれた本書の中でこのくだりだけが温かく希望に躍っている。

「時々私は空を見上げた。星の光が薄れて朝焼けが始まっていた。私の精神は以前の正常な生活では決して知らなかった驚くべき生き生きとした想像の中で作り上げた面影に満たされていた。彼女の眼差しは今や昇りつつある太陽よりももっと私を照らす。そのとき私の身を震わし私を貫いた考えは、多くの思想家が叡智の極みとしてその生涯から生み出し、多くの詩人が歌ったあの真理を生まれて初めてつくづくと味わった。すなわち愛こそは人間が高く飛翔し得る最後の、そして最高のものであるという真理である。たとえこの地上に何も残っていなくても人間は瞬間であれ、愛する人間の像に心の底深く身を捧げることで清らかな幸福になり得るのだとわかった。
強制収容所という考え得る限りの最も悲惨な外的状況、自らを形成するための何の活動もできず、ただこの上ない苦悩に耐えることしかできないような状態においても愛する人間の精神的な像を想像して自らを満たすことができるのである」

―――このとき、囚人の一人が倒れた。監視兵が飛んできて銃でなぐりかかった。その数分間、フランクルの「架空会話」と「想像の生活」は中断されたが、すぐに再開した。囚人の境涯から彼岸へと再び逃れ、愛する者との対話が始まった。彼は問い、彼女は答える。彼女は問い、彼は答える。

妻との架空会話に安らぎながら、フランクルは突然ひらめく。妻が実際に生きているのかどうか! それさえわからないのだ。収容所では手紙を書くことも受け取ることもできない。
だが、また思った。愛は身体的存在とどんなに関係が薄いことか!そして精神的存在とどんなに深く関わっていることか!

「いまのこの瞬間、妻がここにいる、あるいは生存していることももはや問題でない。私の愛の思い、精神的な像を愛しつつみつめることを妨げる者は何もなかった」。――(実際にこのときすでに妻は別の収容所で殺されていた!)彼はそれをまだ知らなかった。だが、後になって彼は振り返る。
「もし、あのとき、妻の死を知っていたとしても、妻の面影を愛し直視することに心身を捧げ得ただろう。妻との精神的な対話はその生死に関係なく力強く満足させるものであったろう」、と。

そして、自分の信仰や宗派についてほとんど触れていないフランクルが、唯一例外的に、ここで次のように書く。
「この瞬間、私は〈我を汝の心の上に印の如く置けーーそは愛は死の如く強ければなり〉(旧約聖書)という真理を知ったのであった」。
フランクルにとってこのときの妻の面影は、まさしく神と同じく勇気と安らぎと祝福を与えるものだったのだ。
現実はどんなに悲惨でも、内面世界を持つことで生き抜くことができる。
これはこれまで多くの極限状況について語られてきた。それは地上最大の地獄といわれるドイツのユダヤ強制収容所においても通用することを著名な精神医学者フランクルは自らの体験を通して証明して見せた。
観念的にではなく、事実として、宗教の持つ意味を考えさせられる。(つづく)