229 宗教を科学する(15) 『なぜ私だけが苦しむのか』――現代の

ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 229

229 宗教を科学する(15) 『なぜ私だけが苦しむのか』――現代のヨブ記 

『なぜ私だけが苦しむのか』(岩波現代文庫)という本を買ってきた。即物的な題名がいい。ボクもよくこんなひがみっぽい気持ちになる。ボク以外の人も同じだろう。そんなとき卑しいことかもしれないが、他人の苦しみをのぞき込むことで自分の苦しみが相対化される。同情することで自分が救われるという一面がある。むろんそれだけでなく、勇気や希望を戴くという期待もある。
本のサブタイトルは「現代のヨブ記」とあった。旧約聖書にある元祖ヨブ記(民話)は難解で深遠で、人間の運命と神の関わりに対する最初で最古の声明、限りない文学的価値をもつとされてきた。よく知られた話だが、ざっと次のような内容だ。

「二千五百年ほど前、悪魔が神に地上の人間どもの罪深い所業をなじる。神は潔白で正しい人物の例としてヨブを引き合いに出して人間をかばう。悪魔は『それは神が彼を祝福し、多大な富を与えて来たから当然だ。彼から祝福を取り上げてみよ、彼は従順なしもべでなくなるだろう』と予言する。
神は試しに、ヨブには何も告げないでヨブの財産を奪い、子どもたちまで殺し、ヨブを重い皮膚病にもする。ヨブの妻は神を呪え、と詰め寄る。三人の友が慰めにきて、ヨブと問答を交わす。」

この問答が神学的にいろいろな問題を提起するのだが、長くなるのでやめよう。さわりはヨブが「神から幸福をもらった。不幸ももらおう」と信仰を捨てない点だ。最終的に神はヨブに新しい財産、子どもたちを授けてめでたしめでたしとなる。
この過程でいくつかの教義が示される。
ヨブは神に「私は神に背く事はなにもしていない。もしあるというなら、その証拠を見せてほしい。私の苦しみはまったく不当だ」と訴える。それに対する神の答えはーー。

わたしが天地を創造したとき、お前はどこにいたか。
知らないだろう。
お前は馬に力を与えることができるか。
タカが舞い上がるのはお前の力か
このことを内田樹さんはじつにわかりやすく書いている。
「私たちは世界の創造に遅れて来た。例えて言えば、どういうルールで行われているのかわからないゲームに、気がついたらもうプレイヤーとして参加していた。ここには世界と存在を超える者に対する謙虚な構えがあります。〈私には分からないけれどもこのゲームを始めたものがあり、そうである以上、このゲームにはルールがあるはずだ〉というふうに推論する思考の方向を私は宗教性と呼びたい」(『いきなりはじめる浄土真宗』から)

そしてユダヤ人哲学者レヴィナスを引用しながら、私たちは生まれてきてしまった。生前のことも、死後のことも知らない。しかし生まれたということ自体がすでに創造者からの贈り物を受け取っていることだ。この贈り物に対する反対給付の義務感――決して完済できないという自覚――それが信仰だという。
存在とは? 無限とは? もろもろのなぜ? とわれわれが問いを立てることが出来る、それ自体がすでに贈与されたものである、とレヴィナスは述べている。なるほどとボクは納得させられてしまった。

さて、『なぜ私だけが苦しむのか』に戻ろう。
著者はユダヤ教の教師(ラビ)。長男は三歳の時「早老病」という奇病で、「身長はせいぜい1メートルまで、頭や体に毛ははえず、子供のうちから小さな老人のような容貌で、10代のはじめに死ぬ…」と告げられた。彼もまたヨブと同じ心境になった。自分より熱心に神に仕えていない人も私より恵まれているのはなぜか。なぜ私だけにこんな不幸と苦難がーー。これでも神は存在するというのか!

それから彼の苦悩と、その克服、納得への道すじが綴られていく。誠実で柔軟な告白と試行錯誤に胸うたれたが、同時にユダヤ教キリスト教特有の考え方をめぐる思索、思考、反省が多く、一般の人にはおそらくピンとこないところも多々あった。
信仰を持っていない人のためにポイントを要約しておこう。

苦難が襲うのは、神の意志でないとすれば、なにが私に不運をもたらすのでしょうかーーと問われて、著者は「この問いは本書で述べようとしたすべてのカギとなる」と前置きして次のように言う。

:なぜあなたはすべてのことに理由をもとめるのでしょうか。宇宙に手に負えないことがあってはならないのでしょうか。
:神は全能ではない。限界がある。すべてを見極めることはできない。だから私たちが苦難にあったとき、「なぜこんなことが起こったのか?」と問うより「こうなったいま、私はどうすればよいのか」と問おう。
:悲惨な出来事を起こすことも防ぐこともない神は、人に働きかけ、人を助けようとする心を奮い立たせることで私たちを助けている。苦しむ人の重荷を軽くし、虚しくなった心を満たすべく、友人や隣人の心を奮い立たせるという方法をとるのだ。

そしておしまいに著者は書く。
「息子の外見や身体的限界を気にせず、特別扱いせず、一緒に遊んでくれた子供たち。そういう人たちこそ、神の言葉だったのだ。その人たちを通じて、神は私たち一家が孤独ではないし見捨てられたのでないと語ってくれていたのです」