228 宗教を科学する(14) 宗教に「あの世」が必要なわけ。

ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 228

228 宗教を科学する(14) 宗教に「あの世」が必要なわけ。

宗教に「あの世」はつきものだ。「前世」も欠かせない。教えを説くのに自分がいま住んでいる「この世」という現実世界のほかに「他界の存在」が必須条件なのだ。キリスト教の「原罪、天国、地獄」。仏教では「輪廻、縁起、因果」などに象徴されている。なぜ、この世以外の世界が必要なのだろうか。
脇本先生の著書からそのヒントになるような個所を引いてみよう。

「この世的にあくせくと利己的・自己中心的に生きている自分を乗りこえて、神あるいは理法など、何か大いなるものとの関連のうちに自己を位置づけてとらえる生き方」

「最終的に到達し実現されるべき人間の在り方が目標として思い描かれ、理想として掲げられる。同時にその理想に対してなかなか到達しがたい自己の現実の状況が対照的に浮き出てくる。理想や目標からほど遠い自己の姿、理想と現実との分離、自己の限界や障害などが明らかにされてくる。それがさまざまな宗教的苦悩の源泉ともなる。」

「宗教者と現実主義者を分かつのは、(この世を超えた)超越的な夢や願いを持つか持たないかの違いだ。宗教者は実現不可能と分かっていても、この理想目標を諦め捨てるのでなく、なおこれを夢として抱き、究極の願いとして努力し続ける。そこに冷たい現実主義者とは違った宗教的な生きがいを感得する。」

「宗教者は超越的な目標に向かって果てしない課題を背負い、歩み続ける。そのプロセスのうちに理想と現実、可能性と限界性といった二つのものを総合的に組み合わせ、少しずつ理想を実現化していく。そこに宗教的な生き方が開かれていく」

この世の現実は苦に満ち、理由のつかない不公平、差別、不条理が蔓延している。どんなに嫌だとじたばたしてもだれも病気や老いや死を拒否することは百%不可能だ。そんな中で一人ひとりかけがえのない一生を生きる意味は何だろうと問うても、その答えはきっとこの世のデータだけでは作成できないのだ。現実の論理でつじつまが合わないとしたら、あの世や前世の資料も取り寄せて説明するほかはない。ということなのだろうか。

だから他界は一方でこの世とは異質で超越性を意味するが、一方ではこの世と連続性がある。そこには死んだ祖先がいてわれわれを見守ってくれている。そのような信仰によって他界は愛する親や死者がいて、やがて自分も帰っていく究極の場所になる。あの世は怖いが、しかし、懐かしいような自分の故郷でもあるという落ち着き。

でも信仰していても、「あんな悪い奴が栄えるのはなぜか。」「よりによって自分がこんな不幸な目にあわねばならないのはなぜか。」というケースも日常的に起きる。こういう疑問は科学では解けない。宗教はこんなとき、たとえば前世の因縁とか、祖先のたたりとかの答えが用意される。
不幸や苦難そのものは解決しなくても、心理的な安定感は回復する。マルキシズムが「宗教は現世のアヘンだ」といったのはこのあたりのことを指す。しかし、ともあれ、人生の不幸や苦難はその根拠や意味が示されると人間はかなり耐えることができるのは事実だ。

それだけでない。現在を正しく懸命に生きてさえおれば、来世には天国へ、浄土へ、という救済への期待と確信を信仰は与えてくれる。そういう生き方は理想(あの世)と現実(この世)とのかっとうを繰り返しながら、少しずつこの世を超越し、理想・目標に近づいていくというわけだ。

さらに「このような超越の思想の論理からみると、生前と死後との別を超え、そこには幸と不幸の対立を絶した宗教的生がひらかれてくるようだ。それは、透徹した諦観の境地といってもよい、永遠のいのちのはたらきといってもよい、何かそのような、こだわりのない自由な世界の展開なのであろう」と脇本先生は書く。この最後の個所は印象に残る。前回の柳澤桂子さんのことばと共通するものがある。

ボクのような宗教の門外漢でも、いわんとするところはなんとなく伝わってくる気がする。柳澤桂子さんの言葉を繰り返そう。
「宇宙の塵ほどでもない私が生きることを苦しみ、死ぬことを想っている。限りなく大きな存在としての自分があり、限りなく小さな存在としての自分がある。この矛盾をどう調和させるのか。自分をどこまで小さくできるかということが問われている。」
「自分は背後に潜み人格のすみかは、宇宙の一景となって自然に溶け込んでほしい」
目を閉じると、あの世とこの世、幸と不幸、喜びと苦難が混じり合った「無の心象風景」のようなものが浮かんでくる。束の間の妄想かもしれないが、対立のない、こだわりのない、永遠のいのちがはたらく諦観の境地がひょっとしたら、ボクにも開けることがあるかもしれないとつい思ってしまうのだ。