227 宗教を科学する(13) 自分をどこまで小さくできるか!? 

ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 227

227 宗教を科学する(13) 自分をどこまで小さくできるか!? 

 読書、思索、芸術に触れて心を耕し、より高度な神、信仰を、と前回柳澤桂子さんはいった。言いかえれば、自我の質を高める、ということになろうか。しかし、これにはかなりエネルギーがいる。もし、病気や寝たきり状態になったり、老いて体力、気力、知力が衰えてきたときはどうすればいいのだろう。

 長い難病の床にある柳澤さんの文章をアトランダムに拾って要約しておこう。
 富も地位もなく、歳月だけが降り積もった老残のわが身には、これからの日々をほの明るくしてくれそうな柔らかな言葉の数々である。
 
「生きがいを求めていきることは所有欲に翻弄されて生きるよりはよいかもしれない。しかし、私には、生きがいを求める心もまた執着の結果であると思える。生きがいを求める心も年齢相応に枯れていかねばならないのではなかろうか。青年期には大いに燃えてぎらぎらするような生きがい感を追求してほしいとおもう。しかし、年老いたときには生きがい感に執着することなく、自分の価値を問うこともなく、この世で何の役にも立たない自分を受容できるだけの包容力を身につけたい」

 「もし、病気をしたことで、私が学んだことがあったとすれば、何の価値もない自分であることを肯定し、何の意味もない人生を生きることを喜びとすることを学んだことであろう。」 

 (金や地位はともかく、せめて生きがいはほしいなあ、とか、自分はなんのために生きてきたのか、その証明がほしい、とこのごろ、よく思い、へんな焦りがある。しかし、この文章を読むと、すっと和らいでくる。どんな人生であれ、要するに、宇宙の塵から生まれ、塵に戻っていくのだ。その塵がつまらない、無意味とは決しておもわないけど、要するにみんな同じ塵だという安心感と平等感のようなもの。)

 「動けなくなって最初に無念に思ったものの一つに、デパートの食器売り場にいけないという不自由があった。どれも高価なもので、次々に買うことはできないが、眺めてまわることが私の楽しみの一つになっていた。動けなくなってからは本で眺めて楽しんでいたが、さらに病状が進んで家にある食器を片づけることさえできなくなった。どんな美しい食器のカタログを見ても、もう私には用のないものだと身に沁みてわかった。今生には私に縁のない美しいものたち。人生にはそういうときがくるのだということをかみしめた。」

 「人生には楽しむべきときというものがあるのだ。家具が必要であり、それを使うことを楽しめるとき、美しい衣服が似合うとき、化粧品が楽しめるとき。そんなときにそこにお金をつぎ込んで思い切り楽しんでおくのが大切なのだと人生の終わりになって気づいた。そして年老いたら美しい思い出に浸りながら、心の旅路を思い切り楽しみたいものである。」

(一日一日を自分に忠実に、全力投球し、年相応に時間の果てへ流れていこう。)

 柳澤さんは車いすの男性のエピソードを紹介している。
小学時代の同級生で、神経の難病のため身体がマヒしている。男性はある年のクラス会に出席し、途中で小用を足したいから手伝ってほしい、と同級生に頼んだ。3人の女性が何気なく応じたが、いざとなって、当惑した。男性は自分では立つことも、また手を使うこともできないのだった…。
久しぶりに会った異性の幼友達に、このような手助けをさりげなく頼む男性の勇気、そのようにまでしてクラス会に出席する積極的な姿勢。柳澤さんは感動し、教えられたという。男性はすべてボランティアに支えられた一人暮らし。画家だが、絵筆も握れないので、特殊な装置で絵を描く。そして個展で買い上げられた絵は、ボランティアの人たちに助けられながら、必ず自分で買い手のところへ届けるそうだ。
このエピソードの末尾は「美しく自分を無にするとはこのようなことではなかろうか」と結ばれている。

おしまいに無限の宇宙のなかの塵のような自分という視点からの言葉を二つ。
「宇宙の片隅に塵ほどでもない存在として生まれた私は生きることを苦しみ、死ぬことを想う。私という視点では、私がこの世のすべてである。しかし、脳の進化や科学の進歩で宇宙のなかの限りなく小さな自分を知るようになった。限りなく大きな存在としての自分、限りなく小さな存在としての自分。この矛盾を調和させつつ生きねばならない時代になった。生きているうちに自分をどこまで小さくできるかということが問われているのでなかろうか。」

もうひとつ。
「自己形成の過程では自分という視点がたいせつである。しかし、いったん完成された人格では、自分は背後に潜み人格のすみかは、宇宙の一景となって自然に溶け込んでほしいものである」

(自分という存在は宇宙に比べて塵のように瑣末なのではない。自分を小さくし、無に近づけることで、宇宙と対等に。いや、宇宙と向き合うのでなく、宇宙と同一なのだ。自分もまた宇宙のパーツであり、同時に宇宙の全体そのものでもあるという安らぎ。)