226 宗教を科学する(12)「同情されている」と思う自我と不快 

ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 226

226 宗教を科学する(12)「同情されている」と思う自我と不快 

 ずいぶん前から何でもいいから信仰がほしい、といらいらしている。ボクなりに本を読んだり考えたりしているのだが、効き目が出てこない。死ぬ時、信仰があると、安らかだ、と前回の柳澤さんをはじめ、多くの人が証言し、その信仰を得る近道は、自我を減ずることだ、というのも、みなさんの共通項のようだ。読書や思索はだれでもできるが、この自我退治がいちばんの難敵なのだ。これに手を焼いているのも、みなさん共通している。

自我を小さくするとはどういうことか。
ごくごくささいな事例を柳澤桂子さんが正直に書いてくれている。柳澤さんのような人でも、こんな心の動きがあり、しかし、これをこのように見なせば、こんな結果につながるのか、とボクは教えられた。

ある日、柳澤さんは電動車いすで道を通っていた。多くの見知らぬ人が挨拶をしてくれる。彼女もきげんよく応じていたが、その中の一人、同年輩の女性が「たいへんでいらっしゃいますね」と声をかけてきた。その瞬間、「私は憐れみをかけられているのか」という思いがよぎり、妙に不快になった。道端に車いすを寄せてしばらく考え込んだ。

もし私があの場にいなかったら、そもそもこんな気持ちも存在しないのだ。いたとしても、私に「自我」がなかったら、この不快さは存在しないはずだ。あの女性はかわいそうな車いすの人にやさしい言葉をかけて、心地よかっただろう。私という存在がなければ、あの女性の心地よさだけが残るのだ。
――ここまで考えていくうちに、自分が経験したかつての神秘体験に近い恍惚感が押し寄せてきたそうだ。そうだ、これが自我を滅するということなのだ。自我さえなければ、苦しみも悲しみも存在しない。その自我を作り出しているのは私自身だということを心底から体感できたという。

さて柳澤さんは書く。
私たちは「自分」と「自分以外」が対立する二元の世界を見ている。それは自我のせいだ。自我が世界を二つに分ける。本来は宇宙一体で、一元の世界なのに、生命の進化の過程で生き残りに有利な「自己」と「非自己」を区別する能力、つまり自我が培われてきた。ものごとを二元的に見るために、執着・我欲・煩悶が生まれる。実際は一元的な世界(現実)に生きていながら、頭の中では二元的な見方(仮想現実)にとらわれている。その見方のなかにすでに際限のない執着の苦しみを宿している。

どの宗教も一元的な世界に戻ることを説いている。それは生命の歴史の中で、私たちがまだ幸せだった時代に戻ることだ。自我のないころ、とは進化のどのころだったのだろう、と自問し、柳澤さんは宗教の過去と未来をひとことで要約する。
「いずこにも神が存在するというアニミズムの時代を経て、私たちの意識は、自我の確立とともに人格神(キリスト教のような一神教)の認識に進化する。そこでは全知全能の人格神にひたすら救済を願う信仰スタイルをとる。しかし、さらに意識が進化すると、私たちはそういう人格神を超越して『神なき神の時代』に入ることができると私は考える。『野の花のように生きるリアリティー』を取り戻せば、神に頼らず、自分の力で神の前に神とともに生きることができる。特定宗派の教義にこだわらない信仰へ進化できるのだ」

般若心経の現代語訳の冒頭に柳澤さんはこんな文句を綴っている。

ひとはなぜ苦しむのでしょう
ほんとうは
野の花のように
わたしたちも生きられるのです

「野の花」は柳澤さんにとって意識と信仰の関係を示す象徴だ。
 人の意識は、原初の段階では生存本能、闘争本能むき出し。フロイトユングのいう「無意識層」である。魚類、両生類、鳥類、爬虫類の脳。
それが進化して、人類になると脳は論理的になり、「意識層」となる。原始的な本能、エネルギーがふるいにかけられて、洗練される。この段階がいまのわれわれの意識レベルだ。自我、計算、かけひき、欲望など煩悩の発生源だ。

問題は次の3段階への意識の進化である。私たちはこれをめざそうと柳澤さんはいうのである。私たちはいまでも、無限、安らぎ、真なるものへの共感、神秘への畏敬、自然に抱かれることの喜び、芸術、人間存在そのものの感動、失望、不安、恐れなどの苦しみ、などなどを断片的にはもっている。これをさらに昇華させる。すぐれた芸術作品はこのようなときに生まれる。
散歩中に、その清らかで、つつましく、あるがままを受け入れ、美しく、ひっそり咲いている野の花を見たとき、私たちは純粋な気持ちで感動する。この感動はすぐれた芸術作品にふれたときの情感と同質だ。私たちの3番目の認識のレベルを柳澤さんは野の花に象徴している。
野の花はリアリティーを生きている。私たちがリアリティーを取り戻すとき、私たちの意識も、信仰もさらに進化する。本能むき出し、論理的自我、人格神時代を超え、より高い境地に入れるにちがいない。それは神なき時代の「悟り」の心だ。同時にそれはボンヘッファーの「神の前に、神とともに、神なしに生きる」といった、あの神への信仰だ。(220回参照)
私たちが読書をし、思索を深め、優れた芸術品に数多く触れ、自分の心を耕し続けるとき、私たちはこの信仰を得るに違いないと柳澤さんは確信している。
(つづく)