225 宗教を科学する(11) 人間以前の状態に戻る安らぎ

ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 225

 225 宗教を科学する(11) 人間以前の状態に戻る安らぎ

 前回のつづき。
河合隼雄さん(京大名誉教授でユング派の臨床心理学者)は信仰と無意識の関係をイスラム神秘主義を例に紹介している。=182回の『宗教と科学の接点』参照。

 人間の意識には日ごろ私たちが意識している意識層のほかに深層意識がある。イスラム神秘主義によると、いちばん浅いところにあるのが欲望、慾情の領域で、いちばん奥に潜むのが自我意識の完全になくなった無の境地だ。この境地になってはじめてわれわれがふつうに意識している「現実」も表面的なものから深い層にいたるまで何層もの現実が存在しているのを見ることができる。

この境地にいたるには激しい修行が必要で、禅宗の座禅、ヒンズーのヨガなどもこのような修行のひとつだ。西洋近代は自我による意識が「現実」をとらえるとしてきた。しかし、ベトナム戦争以来、この「現実」に自信がなくなり、東洋的な意識の捉え方に注目し始めた。自我で把握する現実は唯一の現実でないのだ。

西洋流の考え方は自分と対象(環境)を別個のものとして切り離す。自分は環境から独立した主体的な意識・自我なのだ。このやりかたで、西洋の自然科学は成功してきた。対象から切り離した自我=意識によって捉えられた事象は普遍性をもつ。たとえば、ひとつの花をみて、「花びらが5枚」といえば、だれにも同じように明らかだ。普遍性がある。
けれど、「美しい花」とか「さみしげな花」といえばどうだろう。美しいと感じる人も、感じない人もいる。数字のように客観的でなく、それぞれの個性、好み、主観が作用する。「さみしげ」も同様だ。突き放した対象としてでなく、自分が花に感情移入している。自分と花の距離が近い。一体感がある。そこには対象を数値化、断片化できない、もう一つの現実があるというのだ。

同じことが文化人類学についてもいえる。かつては「未開人」を外から観察して、未開、非合理な面を強調した。その後、優れた研究者は未開人のなかに入り、自ら経験することで、近代人にはない優れた生活体系をみつけるようになった。
「東洋こそが真のリアリティーを認識することを宗教との関連において成し遂げようとしており、西洋はまったくその対極としての近代自我の意識をつくりあげていた。しかし、近代自我の意識が見るのは現実ではなく、虚構であった、それゆえ自然科学をつくりあげるのに役立った。だが、その現実はじつは真のリアリティではなかったと気付き、欧米では東洋の宗教への関心が急激に高まってきた。」と、河合さんは強調している。

幻覚剤を使った実験によると人間の意識はつぎの三段階に変化する。
:「誕生から現在に至るまでの経験が現れる」
:「誕生のプロセスを体験する」
:「個人の意識が宇宙の意識や心と同一化したり、動物や植物、無生物とも意識的に同一化を体験する人もいる」

地球上の生物は36億年という長い歴史をへて単純な生物からしだいに進化してきた。動物の発生に関して、「個体発生は系統発生を繰り返す」というヘッケルの法則がある。卵と精子が受精して1つの個体ができあがるまでに、その個体は過去の進化のすべての過程を経由して現在の姿になって誕生するというのである。たとえば、人間なら母親のお腹のなかで、ウニや魚、ウサギやブタと同じような時代・形態を通って、最終的に人間の赤ちゃんに完成して、生まれてくるのだ。

長い進化の歴史の間に、人間を筆頭に複雑で多様な生物ができあがったが、それらの生物の細胞のなかには現在は使われていない遺伝子がそのまま保存されて子孫に継承されているのだ。

そして柳澤さんは「こんな事実を考えると、私たちの無意識層の中には、私たちのはるか過去の意識が、進化の過程をさかのぼって保存されているのでないだろうか」という。これは222回に引用したフロイトの「死の衝動理論」に似ている。
はるか過去、とは私たちがまだ人間でもなかったころの原初の意識だ。
この昔の意識に戻るときに私たちは安らぎを感じるのでないか、といい、「信仰あるいは神秘体験という心理現象は科学的に研究する価値のある領域であり、心理学的、分子生物学的な研究によって、決して神秘的な現象ではないことがやがて明らかにされるだろう」というのが生命科学者・柳澤さんの結論だ。
いや、結論はその先に書かれていた。
 「いずれにしても、深い信仰はそれだけで生きがいにつながる。略。もし自分がなぜ生きなければならないかということが分からなくても、その意味づけさえもその大いなるものにゆだねて、無心に咲く花のように、ただそこに在ることに安らぎと喜びを見いだすであろう」
この大いなるものを、ボクたちは神、仏、あるいは大自然の摂理、と呼ぶのだろうか。その正体は科学では決して解明できないものだ。(つづく)