224 宗教を科学する(10)宗教団体に属さない人の信仰の意味

ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 224

224 宗教を科学する(10)宗教団体に属さない人の信仰の意味

もう一人の女性クリスチャンはまだ若く4人の子どもの母親である。牧師の夫とともに教会に尽くしていた。彼女もひそかに日記をつけており、死後『わが涙よ わが歌となれ』の題名で出版された。亡くなる1,2か月前からの引用。

「ひとりで床についてみると、静かな涙が溢れてきた。夫のこれまでの孤独の苦悩をおもった。母が気の毒だった。父の看病で熟知している道筋を今また娘がたどろうとしている。…。母には二重の思いがあるに違いない。それから子どもたちのことを一人ひとりおもった。○○はどんな青年になるのかな。○○はどんな若者になるのかな。もう見られないだろうな。○子が恋愛したり結婚の決意をしたりする時、相談にのってやれないなあ。そして○○。○○が中三から高校へと進んでいくそのどこまでを共にいてやれるだろうか。略。それから突然、『私がいなくなっても教会は残る』。それでいい、それでいい、という喜びが心に広がった。」

「『主を信じ抜け』と迫りくるお方がある。一方には家族が悩み苦しんでいる。私は暗い会堂でうずくまっていた。しかし、それでも心の根底は揺れ動かないで、どこかに光が射しこんでいるから不思議だ。子どもたちも夫も、キリストを信じて生きること。それさえあれば大丈夫という思いは固い。」

「この平凡なごくふつうの私でさえもが大丈夫ということは、他のキリスト者たちだってきっと大丈夫だろうと思えるのです。平穏な時、頭で考えるより、実際の場合はずっと容易に自分の現実を直視することができてしまいます。そのうえでキリストの真実がずっとはっきり見えてまいります。そうすると毎日が本当に大切で、しかも喜ばしくなってまいります。私みたいなごく普通の女でさえそうなのです。だからこれは珍しいことでなく、ごく普通のことに違いありません」

 門外漢からみれば、キリストは人間の心を変える魔法使いのようだ。むろん、この魔法は薬剤を飲めば即座に効き目が出るものではない。ほんものの信仰が不可欠だ。信仰は聖書や文献を一通り読めば自動的に生まれるというものでもない。

 柳澤さんはこれまでみてきた多くの例から「キリスト教に限らず他の宗教でも信仰を持った人は救われる。死さえ安らぎのうちに受容することができる」と言い切っている。ただ、柳澤さんの「神」が簡単でないのと同様に、「信仰」についてもいろいろ言い分を持っていらっしゃる。
 
曰くーー
 :信仰がなくても、魂の安らぎを得ている人はたくさんいる。
 :信仰は困ったときの神頼み、心の弱さを示すものではない。
 :信仰は特定の宗教集団に属するかどうかとは無関係。
 :私の信仰はもっと深い意味、個人の心のあり方を意味する。

 そのあとに何人かの考えを参照しながら信仰について述べている。
精神科医でクリスチャンの神谷美恵子さんは「信仰とは欲求不満への代償、死の恐怖への防衛、所属感の回復などという消極的なものでなく、人間の心の世界を内部から作りかえ、価値基準を変革し…」と、自分の生き方に新しい意味づけをするものとして信仰を前向きにとらえている。

キリスト教の井上洋治神父は、信仰を「主体的段階」と「逆主体的段階」に分けている。主体的段階というのは「自分がそうなりたい」とお願いごとをする。この場合の信仰は、神仏を自分に従わせようとしているレベル。さらに深い信仰では神仏が主になり、自分が従になる。この段階になると、私たちが日ごろあくせくしている富や名誉が奪われてしまってもその自分を受け入れ、意義づけて生きていくことができるようになる。

柳澤さんはいう。自分が主体の信仰から神仏が主体の信仰に移るには視点の転換が必要だが、それは簡単でない。仏典や聖書を読み、日々の祈りで視点の転換が起こることもあるだろう。しかし…、と柳澤さんはここで『神秘体験』を持ち出す。

心身の苦しみが視点の転換に非常に有効なのは古くから知られている。あえて苦しみを受けるためにたとえば修行などもおこなわれてきた。深い段階に達すると宇宙との一体感のようなものを感じる、宗教学ではこの現象を神秘体験と呼ぶ。

神秘体験はどんな宗教にも起こるし、特定の宗教団体に属さない人にも起こる。人が人生の意味や生きがいについて深く悩み、考え、模索して行き詰まったときに突如として起こるもののようだ。この心理現象には光に包まれるという感じを持つ場合が多い。

「無限の大いさと力を持った何者かと直接触れたという感じ。その大いなるものに助けられて生きているという安らぎ高揚感歓喜」と柳澤さんは定義している。この状態では、自分も他人も、いや、人間だけでなく、生きとし生きるものすべてが、ともに大きな力に生かされているという連帯感がこみあげてくる。ただし、その精神状態は直観的で、表現できないという。どの宗派にも属さない科学者が自らの経験をもとに語る言葉だけに興味深い。(つづく)