223 宗教を科学する(9)安らぎを得るツールとしての信仰

ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 223

223 宗教を科学する(9)安らぎを得るツールとしての信仰

柳澤さんの「神」の中心イメージは、人間の力を超越した大きな自然の力なのだ。自然の摂理なのだ。その神は非常に残酷だが、私たちはどうすることもできない。すべてをあきらめ、どんな苦痛も受け入れざるをえない。ただし、その苦痛を和らげ、安らいだ心境にしてくれるツールとして信仰がある。いや、ツールという言い方は実利的で柳澤さんの真意を伝えていない。信仰で本人の価値観、心そのものが変わる、と言い直そう。

柳澤さんは3つの事例を通じて信仰による救いを証明しようとする。
最初のケースは末期癌のまだ若い女性患者。同じ病院に入院し、励まし合いながら文通していた。患者の母親はクリスチャンで本人も信仰を得ようと努力したが、ついに得られなかった。この世に生まれてきたことを呪いながら死んだ。最後の手紙の結びにはこう書かれている。
「…生の営みの悲しさ。私が死んで分子が再構成され(生まれ変わるのなら)絶対に生物はいやです。心のない無機質で居たい。この世に子どもを一人生んでしまったことに大きな罪の意識を感じます。魂があって苦しむ人間をみずから作ってしまったなんて、取り返しのつかない過ちだった…」

柳澤さんは4年間、彼女の苦しみをみていて、ほんとうに宗教は末期の病人の魂を救うことができるのだろうか、と考える。『医者は、信仰のある患者には病気に耐える力、あるいは安らかに死ぬことができるという心境に至らせることができる、しかし、信仰のない人にはそれは絶対にできない』という外国の文献も知った。それでも柳澤さんは半信半疑だったが、最終的に「確かに信仰によって死を安らかに受容することができ、しかもそれに至る過程も安らぎと感謝に満ちたものであるといういくつかの例に出会った」と書き、次の2例をあげている。

信仰で救われた二人のケース。ともに牧師の妻で自分も神学校を卒業したクリスチャンである。

ひとりは70代の女性。30歳代と50歳代に二度、子宮癌の手術や放射線治療を受けながら学校に通い資格を取り、以後20年間、夫の教会に付属する幼稚園の教師をつとめた。癌が転移し最後に入院した時も明るい充実した表情だったという。死後、枕の下から出てきた日記からの引用――。
「不器用ではあったが、十分生きてきた。年若いときは、宇宙に向かって求めるように、あえぐように何かを求め、年を取ってからは、仕事に出会って(幼稚園教師)自分の無能を知りながらもいつも心いっぱい生きてきた。人生の価値というものをいつも感じた。私が仕事から離れるべき日はずっと前にあったが、このあとの短い年月に、多くのことを知らされた。私を生きながらえさせて下さった主のみ心であると、いつも思った。」

鈴木先生が聖書に『主よ、われ深き淵よりなんじを呼べり』(百三十篇)とサインしてくださって以来、この言葉は心に刻まれている。先生が神の前にどのように立たれたか、これを通して感じる。また、先生の死の時の最後のことば『一切がいまから始まるのです』。鈴木先生のこの二つの言葉は死についての希望そのものである。生きるならば、主のためにありたいし、死もまたよろこびなのである。」

日記の最後は「こどもたちよ、成功を目指さないで、主イエスに従う道をまっとうするように。みよ、はらから(同胞)相むつみて共におるは、如何にたのしきかな」と結ばれていた。

キリスト教のにおいがぷんぷんし、門外漢のボクにはちょっと近寄りがたいところもある。しかし、最初のケースと比べてなんという違いだろう。穏やかで安らかで、なにより感謝をたたえた心境がいいなとおもう。生きることも死ぬことも死んだ後も、基本的に意味がないと割り切ってしまえば、どうせならこんな気持ちで死ぬ方が気楽だろう。キリスト教でもなんでもいい、こんなに気楽で感謝に満ちた気持ちになれるなら、ボクもそういう人になりたい。

問題は信仰できるかどうかだ。そういう境地になるには、キリスト教を、宗教を、信じることが前提条件だ。心の底から信じきらねばならない。うわべで、信じました、と世間や神にうそをついても、自分はだませない。いや、ほんとうに信じているのだぞ、と自分にさんざん言い聞かせてそのときはそんな気持ちになるかもしれないが、腹の底からの信仰でないなら、いざ死の淵に立つと、そんなあいまいな信仰など、吹っ飛ぶにきまっている。

ボクは世間や神、それに自分自身だって、なんとなくごまかせるのでないか、とふだんはタカをくくったところがある。しかし、実際に一度きりの本物の死にぶつかりそうになったとき、そのごまかしが通用するのだろうか。ふだんのどうでもいいときは、口先で信仰をうんぬんすることができても、実物の死の前には化けの皮がはがれるのでないかという不吉な予感がするのだ。知識や理詰めで型通りの信仰の儀式をパスしたとしても、死の恐怖を味わうのは世間でも神でもない、この自分なのだから自分をだましようがない。パフォーマンスしても意味がない。自分が心底からまるごと信じ切ってしまうことが必要条件なのだろうね。(つづく)