222 宗教を科学する(8)「他人を思いやる心」は「進化の法則」に反

ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 222

222 宗教を科学する(8)「他人を思いやる心」は「進化の法則」に反する

 柳澤桂子さんの言葉をつづけよう。難病の苦しみのなかで紡いだこの生命科学者の思索は科学的だが、温かく澄んでいる。

【やがて私の神に背いて】
 「…私たちの脳は、からだの各部からくる情報を1つの焦点に統合して自我意識を生みだしている。その結果、単眼のレンズで世界をのぞくように、自分という視点に縛られた非常に狭いものの見方が生まれる。
さらに脳が進化してくると、前頭葉連合野の発達により、もっと広い視点で情報を統合することができるようになる。すると、自分を相対的に見ることができるようになり、他人の気持ちを思いやることができるようになる。」

柳澤さんは、そのうち人間の脳みそが自分を客観的にみることができる、他人の気持ちを思いやるほどに成長する日がくる、とそれこそ科学的に期待されているが、長い人類の歩みから見てボクは〈脳の未来〉にそんなに楽観的にはなれない。

「生物の世界では自分を増やすことに成功した個体が生き残って増えているはずである。生物は自己の利益だけを考えるようにつくられているということもできる。その結果、所有欲が発達し、ものに執着するようになった。生物は本来、自己の利益にしたがって行動するはずのものであるが、(ときに自我への執着を棄てることで)他人を思いやる心、利他的な心が生まれる。これは自己の生存にとっては矛盾した心である。進化の法則とは相いれない。しかもこのような慈悲心を好ましいと感じる心まで私たちは持っている。なぜ人間の脳がこのような方向に進化したのか興味深い」

進化の法則からすれば、人間は自分の生存を最優先し自分の利益だけを求めるべきだ。しかし、ときに他人を思いやる心をもち、またそれが好ましいと思う価値観も合わせ持っている。
ものに執着することが苦しみの元であると気付いたひとびとは自我を捨てよ、と呼びかける。キリストも釈迦も同じだ。宗教の核心はそこにある。でも自我、自己中心性こそ、生存するための本能のはず。進化の法則に則っているはず。他人を思いやる心なぞ生物にとって進化の邪魔という理屈も成り立つ。そこでふっと連想されるのは、フロイトの有名な「死の衝動理論」である。

人間を含む生き物は一次衝動として死を目指す。生存への本能ではなく、逆に死への衝動を抱く。なぜかといえば、生命はもともと生命のない物質のなかに誕生した。無生物という環境のなかで生命の特性を呼びさまされたのだ。だから生命は緊張にさらされ、もとの安定した状態(無生物)に戻ろうとする根源的な欲求、衝動がつきまとうというのである。

(なるほど、これはわかる。生は死への回帰の旅路、というわけだ。ではなぜ、ボクたちは、生き物は、死を恐れ、死を避けようとするのだろうか?
生き物には生存競争を生き抜くための自己保存衝動があるではないか。「死にたくない」という本能があるではないか。死への衝動ではなく、生への衝動ではないのか。)

この矛盾に対してフロイトはこう説明する。
生命はかつての無生物状態に戻りたいと欲している。なのになぜ死を厭うかといえば、死への旅路にも、それぞれの流儀、好みのルートがあるのだ。生の目標は死であるにしても、どんな行程でもOKというわけでない。個体はそれぞれのコースを選んで死への旅をする。選んだコース以外の死に方は避けようとする本能がある。外部の環境からの危険が迫り、想定外の、死への近道を押しつけられそうになると、本能的に避けようとする。それが死を嫌う心なのだという。

(死へのコースを選ぼうとするのは個体に組み込まれた遺伝子だろう。私たちが癌を恐れて定期健診をしたがるのも、永遠の命をほしいためというより、せめて与えられた寿命をそれぞれの流儀に従ってまっとうしたいからだ、と本に書いてあったが、うまい説明だと思う。)

柳澤さんには別にこんな文章もある。末期癌の友人への手紙の要約。
「最近やっと最悪の可能性に照準を合わせてそれをしっかり見据えることができるようになった気がする。ペシミズムでも取り越し苦労でもなく、静かに受け入れるとき、本当に心の平和が訪れることがわかりました。
人間の力を超越した大きな自然の力を神と呼ぶのだと私も思います。その神、すなわち自然の摂理は非常に残酷なものと考えています。その前には私たちはまったく無力なので、何も望まず、すべてをあきらめ、どんな苦痛をも受け入れざるをえない。その〈あきらめ〉の手段が、心を〈空〉にすることであり、
祈りであると考えています」
このくだりはほとんど仏教の教義と重なる。

続いて生命科学者らしいニューアンスが加わる。
「これまで進化の過程はまったく偶然にまかされていました。けれど、人間が十分に考えて行動すれば、将来脳が遺伝子を支配することもできるでしょう。私たちはすべてをあきらめて神に身をまかせる一方で、自分は人間として何をしなければならないかということを考えていかねばならないと思います。自然が残酷であればあるほど、私たちはお互いに身を守り合わねばなりません。このことを私は研究と病気を通して教えられました。」(つづく)