221 宗教を科学する(7) 「神や信仰」という業界用語のない宗教論

ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 221

221 宗教を科学する(7) 「神や信仰」という業界用語のない宗教論

宗教というと、神とか信仰とかがつきものだが、そんな業界用語を使わずに、宗教の本質を追究したことで有名なのが近代神学の父といわれるシュライエルマッファーだ。神や信仰のかわりに彼がキーワードとしたのは「宇宙・直観・感情」である。

代表作『宗教論』のなかで「宗教は哲学や道徳ではなく、直観と感情である。宇宙を直観しようとするのである」と定義している。
宇宙は無限だ。底がない、足場がない。そこに人間は生きている。ふだんは人間社会の有限な営みの中で一応自由に安定して生きているように見える。それが、ふと心の奥深くにはいったとき、明日の命さえままならないという根本的な不安と無力感に襲われる。同時にその無力な自分が宇宙の無限の力に支えられているという自覚もわいてくる。これを彼は「絶対的依存の感情」と呼び、宗教の源泉とした。

さらに宗教は「人間が宇宙を捉えようとするいとなみでなく、宇宙の働きによって人間が捉えられること」とも表現している。ここは科学の考え方と決定的に違うところだ。科学は逆に、人間が宇宙を捉える主体の立場だ。あるいは仏教でいう自力・他力の違いにも似てくるのだろうか。


【私の神と出会う場所】
柳澤桂子さんも宇宙のなかの自分の直観と感情をしばしば書いている。
「自己中心的な視点に立てば、自分は宇宙の中心であり、無限に大きい存在である。しかし、自我を離れてみれば、自己は宇宙のなかの限りなく小さい存在であることに気づき、自分を取り巻くものの大きさに圧倒されるのである。自我を離れれば離れるほど、私たちは宇宙と渾然一体となった自分を感じ、宇宙の懐に抱かれている自分を感じるのである。私たちは脳回路のどこかで自分の本来の姿を感じる力をもっているのでなかろうか。」

宇宙の無限のなかの、ほんのちっぽけなはかない自分。それが真実の人間・自分のありかたなのだ、と柳澤さんはいい、それを教えてくれたきっかけが、あの神秘体験であったと次のように書く。

「私が神秘体験のなかで遭遇したあのふしぎな宇宙との一体感の正体がおぼろげながらわかってきたような気がする。なぜあのようなことが瞬時に起こったかは依然としてよくわからないが、人間の心理現象としてこのようなことが起こるのであろう。宇宙のなかのかぎりなく小さい存在である自分に気づくことは、かぎりなく謙虚になることでもある。謙虚になれば、感謝の念や優しさも生まれる。人間のもついろいろな苦しみからも解放される。これが人格神を超越した宗教心ではなかろうか。科学は神を否定した。しかし、私たちはその先にある偉大なものの存在を見据えているのである。私たちの心のなかには、その偉大なる存在のなかの小さな自分を認識する能力が備わっているように思われる。意識はこのようなものを認識する方向に進化していると私には感じられる。」

前回、柳澤さんは「21世紀には科学は宗教を解明できる」といった。この言葉遣いがボクは不快だった。一部の無知な科学者にときどきみられる無知ゆえの傲慢を懸念した。しかし、このあたりの文章を読むと、科学が宗教に優位に立つといっているのではなくて、人間も、そして人間が作り上げた科学というひとつの思考法も、人間的なるもの一切合切が宇宙にはかなわない、(いや、こういう言い方は柳澤さんの神経に触るだろう。『それら人間的なものもまた宇宙の一部に溶け込んでいる』、という表現のほうがより的確かもしれない。)それをよく認識したうえで、無限の営みの中で有限な命を生きる人間が自らを客観的にみつめ、考え、意味づけるツールとしての科学を指しているのだ。無限な宇宙の中で生きるかぼそい存在の人間がなぜ神や宗教を必要とするのか、そのシステムを科学は明らかにできる、といっているのだ。

別の個所で柳澤さんはこうも書いている。
「私たちの苦しみはすべて執着心に原因がある。執着心はこの世界を自己と対象にわけて認識する。本来この世のなかのものは一様に存在するだけであってそこに自己と非自己という判断を加えるもの私たちの脳の神経回路である。こうして私たちには所有するという欲が生まれた。ものへの執着は自己中心性の所産であるが、所有欲がさらに自己中心性を膨張させるという悪循環を起こさせる。このような悪循環を断ち切り、自我への執着さえも棄てられたときに、私たちは人間の神経回路が生み出した偏った見方から脱却することができ、宇宙のなかに存在するもの本来の姿にもどることができる。このように一元的な認識を取り戻した時に、私たちは人間としての苦しみから脱却できるということに天才的な宗教家たちは気づいていた。」

そして、自己中心性を脱却することは広い視野につながり、宇宙の懐に抱かれた自分に気づき、安らぎを覚えることができる、と結んでいる。
 自己中心性は科学の力では脱却できまい。また科学が進歩すると、科学はいつの日か私たちに宇宙の懐に抱かれている自分に気づかせてくれ、安らぎを与えてくれるのだろうか。とてもそうとは思えない。ここにこそ宗教の存在理由が浮かんでくるのだろう。(つづく)