220 宗教を科学する(6)「神の前で、神とともに、神なしに生きる」

ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 220

220 宗教を科学する(6)「神の前で、神とともに、神なしに生きる」

【私の神とは】
前回の柳澤桂子さんの「私の神は簡単でない」発言もおもしろい。キリスト教でも仏教でも一言でくくれない「私の神」である。
彼女がやっと「私の神・私の宗教」にたどり着いた、そのきっかけは仏教書を読み、神秘体験に遭遇したことだった。彼女の本には仏教の教えがあちこちに出てくる。一方で、エックハルトキリスト教徒だし、彼女に影響を与えた神学者・牧師さんなども多数登場する。
彼女自身が書いているように、仏教、キリスト教、と割り切れるものではないのだ。ただ、言えるのは無限の宇宙の中のかぼそい人間存在、命の流れ、その奇跡への感謝が神や宗教につながっているということだ。この点がフロムのいう人間主義的宗教となるのだろう。

彼女は宗教についてこう書いている。
「私は宗教を生命科学的な視点から考えた。どの民族も何らかの宗教を持つということは〈神〉はほんとうに存在するということだ。しかし、その神は私たちの心の中に精神作用として存在する」。
――大昔の人たちは木にも石にも霊が宿ると考えた。いわゆるアニミズムだ。その時代は人間に自己意識がいまほどはっきりしていなかった。人間と神の関係も近かったのだろう。

「私たちの意識が進化して自己意識がはっきりしてくると、自己意識を持った神を作り出す」。
――これが一神教の誕生だ。

人間は自己中心的で自己意識の強い動物だ。けれど、他人を思いやることもできる。自己中心性を少し捨てて他人のことを考えるとき、そこに愛が生まれる」
――仏教でいう慈悲だ。

「私たち人間は自己中心性をまったく捨ててしまうことはできない。全部捨てては動物として生きていけない。神は自己中心性を全部捨てることができる。自我をなくして愛(慈悲)だけを持つものが神であり、仏であると私は考えている。人間にとって宗教は大切だが、私の思い描いている宗教は人間性の超越へと向かう宗教だ。祈りは瞑想として素晴らしいが、神に寄りかかる宗教、願い事をする祈りは次元の低い宗教だ
――柳澤さんは宗教と科学は相いれないものでない、21世紀には科学は宗教を解明できるという。ここにも人間主義的宗教の立場が見える。

神秘主義エックハルトに続いて柳澤さんがあげるのは、ドイツの神学者ベルリン大学講師のボンヘッファーだ。「神なしの神学」を説いたバルトから大きな影響を受けた。婚約してすぐにナチに逮捕され、2年後ヒトラーの命令で絞首刑になった。ヒトラーが自殺したのはその3週間後だった。

ボンヘッファーの「神の前で、神とともに、神なしに生きる」という言葉が有名だ。獄中から家族にあてた手紙は死後、1冊の本にまとめられている。ボクも斜め読みしたが、難しいというか退屈で数ページめくっただけで投げ出した。

柳澤さんが引用している彼の手紙を要約する。
「道徳学的、政治学的、自然科学的、哲学的、宗教的な作業仮説としての神は廃棄され、克服された。これらを広く廃棄し、『タトエ神ガイナクトモ』この世の中で誠実に生きなければならない。まさにこのことをわれわれは神の前で認識する! 神がわれわれをこの認識に導く。神はわれわれが神なしに生活を処理できるものとして生きなければならないということを、われわれに知らせる。神という作業仮説なしにこの世で生きるようにさせる神こそ、われわれが絶えずその前に立っているところの神なのだ。神の前で、神とともに、われわれは神なしに生きる」

ここで述べられている神はたしかにイエス・キリストでもないし、お釈迦さんでもない。人間の心の中にひそむ「人間性の超越」をめざす心、とでもいえようか。人間性というのはときどきは他人のことも思うけど、ほとんどは自己中心、自我むきだしで生きている。そんな自分を反省し克服しようと願う。願いながらも挫折する。しかしまた挑戦する。神に誓って。その神はイエスでも仏陀でもない。

柳澤さんの神は確かに簡単でない。いろいろな要素が含まれている。それらのなかで中心的なイメージを演出しているのが「無限の宇宙のなかの小さな私」である。次回はこれをキーワードに柳澤さんの「私の神」を問うてみよう。(つづく)