219 宗教を科学する(5)神秘体験――柳澤桂子さんとかモーツアルト

ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 219

219 宗教を科学する(5)神秘体験――柳澤桂子さんとかモーツアルトとか

「友がみな われよりえらく 見ゆる日は 花を買いきて…」。啄木のようなそんなくたびれた気分になったとき、柳澤桂子さんの本は役立つ。元気づけられるとか、勇気をくれる、というのでなく、「みんな同じだよ、人間だからしかたがないんだよ」という慰めと諦めを与えてくれる。高揚感ではなく、肩を落とした力まない静かな心境である。

柳澤さんの本には「エックハルト」とか「神秘体験」が随所に出てくる。すぐれた科学者で怜悧な現代女性の典型のように見える彼女がなぜ?と思いたくなるが、その何か所かを要約してみよう。

【神秘体験】
「難病のため研究所から電話で解雇の知らせを受けた夜、私の心はキリキリ痛んだ。あんなに大切にしてきた研究ともお別れだ。1系統も絶やさず飼い続けているマウスとも別れねばならない。眠れないままベッドで横になり仏教の般若心経について書いた本を読んでいた。心を苦しみにまかせていたのに本を読み進むにつれてその苦しみが少しずつ希望に変わっていくのを感じた。
朝日で障子が白んできたときに、私は突然炎に包まれ、激しいめまいがし、一瞬意識がなくなったように思った。次の瞬間、昇ってくる朝日に照らされながら何か大きな暖かいものにすっぽり包まれた。それが去ると私の前には一本の道がまっすぐにどこまでも続いている。穏やかな気持ちになり、救われたのだと思った。何も心配することはない、このまっすぐな道を進めるのだとわかった。
このようなできごとは一般に神秘体験と呼ばれて、わりによく起こることのようだ。神秘体験が起きる条件は強いストレスだ。強いストレスを受けると人間の脳の中でエンドルフィンのような快感物質がよけいに分泌されたり、アセチルコリンのような神経伝達物質が沢山出て、こうした不思議な体験をすることはあるかもしれない。21世紀のうちに科学的に解明されるだろう。
私は神を求めて、苦労したが、その甲斐あって理想的な宗教にたどり着けた。誰かに聞かれれば私は「無宗教です」というだろう。一言で説明できるほど簡単な神を私は持っていないからだ。
けれども私は祈る。神に何かをお願いするためにではなく、この大きな宇宙、38億年という生命の歴史を畏(おそ)れ、そのような奇跡の中に生かされてことに感謝するからだ」  

長年の難病と苦悩の歴史、それに鋭い知性、感受性など、この神秘体験は柳澤さん固有のものかもしれない。だれにも通用するものでないだろうが、それでも科学者の語る神秘体験として興味深い。同時にこういう体験を言葉で表現するとこんなに安易で平凡になるのかなと思う。もう少し奇抜でどきっとする内容を期待していた。しかし、人間が心身で感じるナマのイメージを言語に変換して他者に伝えることは本来不可能なのだろう。両者の間には越え難い溝が横たわっているのだと思う。このことは村上陽一郎東大名誉教授(科学史・科学哲学)も、「人間の言葉」、「自然の言葉」、「神の声」などをキーワードに宗教の奇跡を説いている。このことはのちに述べよう。

余談だが、河合隼雄さんと立花隆さんが対談集『生、死、神秘体験』の中でモーツアルトと神秘体験をつぎのように話しあっている。

モーツアルトは『自分は交響曲を一瞬に聴いている』といった。自分では一瞬の体験でも、他人にわかるように楽譜に書いたらーー20分ぐらいの長いものになってしまう、というわけだ。
神秘思想というのも神秘体験で瞬間的に真理を把握することから生まれてくる。一瞬のうちにあらゆる知恵、あらゆる知識が流れ込んできて、自分はすべてを、全世界を理解したという感じになる。
モーツアルトも曲を書き始めるとき、彼の頭の中にはすでに曲の初めから終わりまで充満している。それを楽譜に直すには現実の時間に解きほぐさねばいけないから長くなる。本当は神秘主義の体験みたいに時間的に一瞬に体験された音楽世界というのが彼の中にあった。
体験内容というのは物語らなかったら第三者にはわからない。わからせようとすると時間がかかる。でも物語の根本体験というのは一瞬のできごとだ」

私たちはモーツアルトが頭の中でもともと瞬間的に凝縮されていたものを演奏というプロセスのために時間的に引き延ばされたものを聴かされている。だから、演奏された音楽をそのまま聴くのでなく、もう一度一瞬の音楽体験に凝縮し直して聴くというのが本当の聴き方なんだって!? モーツアルトの曲について音楽的な分析・解説は無用。ただ、「いい・悪い・好き・嫌い」の4語があればいい。ついでにいえば、その体験をもっと時間的な整合性をもたせ、論理的に構築してみんなに分からせるように提示しようとしたのがベートーベン以降の音楽家たちーーなどなどのうんちくや講釈を垂れられても、平凡な脳の持ち主で、神秘体験なんか味わったことのないボクにはなんのことやら。     (つづく)