217 宗教を科学する(3)神は信じないが、宗教は信じる!?

ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 217

217 宗教を科学する(3)神は信じないが、宗教は信じる!?

キリスト教や仏教は一神教だから嫌なのだ。俺は万物に霊がやどるというアニミズムがいい」と物知り顔で言った先輩がいる。仏教が一神教というのはまちがいだ。それぐらいはボクにもわかるが、この際、脇本平也先生の本に従って宗教の仕分けをしてみよう。

 ○進化論で一神教
キリスト教イスラム一神教だが、それまでにアニミズム(自然万物に霊がやどるとし、それを信仰する)からデーモン(精霊から神に至る途中の段階にあるもの)へ。さらにそこから多神教などを経て、最後に現在の唯一神教へ到達した。宗教の進化論モデルだ。神は超自然的にえらい。人間は逆立ちしても及ばない。人間はつねに神を仰ぎ、いわば対面関係にある。

○神を立てない仏教
キリスト教などと違って仏教は一神教でも多神教でもない。神そのものを持たない宗教だ。神に祈ったり願ったりするのでなく、人間が真理を悟り正しい道を行なうことで煩悩から脱することが本来のよりどころとなっている。これを悟った人を仏陀(覚者)と呼ぶが、これは超自然の神的存在でない。いわば人間が神になるのだ。人間は「神」の背中をみながら同じ方向へ進んでいく。

仏教のように神を立てない宗教を「無神的」宗教、と呼ぶ説も出てきている。これは唯物論的な宗教の否定ではなく、「神は信じないが、宗教は認める」という立場だ。キリスト教の影響の強い西欧でも近年このような思想が広まっているという。

神と宗教は一心同体、表裏一体、でなかったのか。神抜きの宗教が存在するなんてちょっと意外だ。そもそも宗教とは普通の日本語でどんな意味を指すのだろうか。一般的な国語辞典には「宗教とは、神・仏などの超越的存在や、聖なるものに関わる人間の営み」などとある。ごくごく表面的で紋切り型の説明だ。これでは西欧の新しい思想動向『神抜き宗教』もわからない。
別の大部な哲学・思想事典を開くとさまざまな定義が長々と記述されている。次の三つに簡略化してみた。

1、何らかの実在者を信じる信念としての宗教。
このタイプはキリスト教を中心にもっともポピュラーで歴史が古い。宗教は『霊的存在への信仰』『無限なるものをとらえる能力』などと定義される。近年もっとも用いられるのは『超自然的な存在への信仰』だそうだ。このタイプだと仏教や儒教のような「神を立てない」、神のいない宗教がこぼれ落ちてしまう。

2、人間の生活の中で果たす機能としての宗教
宗教は『人間が直面する究極的諸問題への応答』などと定義される。仏教などもここに入る。それはわかるが、神を戴かない立場だから定義の範囲が広い。唯物論思想の『マルクス主義』なども含まれるという。近年はこのタイプの新しい宗教ジャンルが西欧でも注目を集めている。これはあとで紹介する。

3、主観的、心理的、情緒的な体験にひきつけた宗教
このタイプの定義には『絶対依存感情』とか『聖なるもの』の体験を重視する。さらにそこからもっと非合理的なイメージを強調する『恐るべきもの・魅せられるもの』の両面をもつものなどがあるという。ボクにはよくわからないし、あまり興味もない。

 上記2、の「神は信じない、しかし、宗教は信じる」タイプの宗教って興味があるなあ。このジャンルのひとつに『ヒューマニズムの宗教』というのがある。これに関してアメリカの著名な哲学者デューイは著書『コモン・フェイス』(邦訳「誰でもの信仰」)で次のように説いている。
 
【現在のもろもろの宗教はおおむね因習化、形骸化している。近代的、科学的な世界観の前に立つと、これらの宗教の空想性の側面があらわになり、多くの人はついていけないという感じをもつ。既成宗教はすでに役割を終えた遺物といわざるを得ない。とはいえ、「宗教的なるもの」はいぜんとして人類にとって重要なものだ。ここで「宗教的なるもの」というのは、特定の神を信じるとか、教団の権威ある教義を信じるとかいうのではない。ひとりひとりの人間が心のうちに社会的・人類的な理想にめざめ、これにひたすら献身して生きるということを意味している。】

ここには神はいない。神は「人間として究極的な意味を持つ理想」に取って代わられている。その理想におのれを賭け、命を燃やす生き方が新しい「宗教」と呼ばれるべきものなのだ。
 次回はこの考え方に近い宗教を唱える新フロイト学派の著名な社会心理学者フロムの主張を紹介する。(つづく)