216 宗教を科学する(2)宗教の前身は「まじない」だった!?

ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 216

216 宗教を科学する(2)宗教の前身は「まじない」だった!?

 前回の呪術は疑似科学であるという説は、呪術は科学と同じように非人格的、機械的、知的で、原因と結果が必然的に結びついているというものだ。しかし、その後逆に呪術は感情的、情緒的、衝動的であり、むしろ宗教に近いという考え方が有力になってきた。

 2、呪術は疑似宗教説

 英国の有名な人類学者マリノフスキーによれば、人間の暮らしには「聖」と「俗」、二つの領域がある。科学は俗、宗教と呪術は聖のエリアだとして次の3点を説く。

? 原始の人間も経験の中で合理的に組み立てられた知識や技術はすでに身につけていた。そういうものを使って、たとえば土地を耕し、種をまき、作物をつくった。海に出るための丸木舟をつくり、魚を獲った。これらは科学の原型である。科学の原型を使って人々はできるだけ豊かに生活を切り開いていこうとした。原始人の「俗」の領域である。彼らも儀礼だけで作物や魚介が得られるなどとは考えていなかった。呪術は決して科学の代用品ではなかった。

? 常識的、科学的に事を処理していける「俗」の日々もあるが、雨の降りすぎ、逆に干ばつ、あるいは海上の突風で丸木舟が転覆することもある。こういう非常時には日ごろ持ち合わせている合理的な常識や技術、知識では役に立たない。「俗」の領域は一転して「聖」の領域に移行する。呪術や宗教にすがり祈願することで不安から逃れようとするのだ。

(ボクはこの点に現在にも生きる宗教の意味を強く感じる。「聖」という表現はともかく、だれの人生も数多くの不安と不意と不幸に満ち、つらく、悲しく、さみしく、はかない、のが基調だ。そして生き物の運命は基本的に不条理だ。ボクらは生涯に何度も何度も「聖」の日々を経験せねばならない。そんな日々のために、どんな知恵と癒しが用意されているのだろうか。)

? では呪術と宗教はどう違うのか。呪術は明確で実際的な目的を達成するための手段である。いわば「現世利益的」である。だから呪術儀礼も安全に大漁で帰ってくることができるようにと事の始まる前におこなわれることが多い。一方の宗教儀礼は当の儀礼の遂行そのものが目的であり、それ自体が喜びなのである。だから宗教儀礼は事が終ったあとに行われることが多い。

 「宗教」、「科学」、「呪術」をめぐってはその後もさまざまな議論があるが、おおむねマリノフスキー説に傾いている。このほか、つぎのようなことが確認されている。

:呪術と宗教はともに「聖」の領域に属し、西欧の合理的な学問体系である経験科学とは明確に区別された立場にある。
:呪術と宗教は非経験的な問題に関わり、非合理的、超自然的な性格を持つ。
:呪術も宗教も世界の「事実」でなく、世界の「意味」を問題にする。それらを教義とか儀礼という象徴体系として構成する。そしてこれらを取り扱う司祭者、僧侶などの専門職が存在する。人々はこれを認め、専門職を中心に価値観や態度を共有する1つの社会集団を形成する。これらの点で呪術と宗教は共通し、科学とは区別される。
 
 そして呪術と宗教は水と油のようにきっぱり区別することはできないというのが結論のようである。ただ、微妙に絡み合っているが、方向性や程度の差は歴然としている。たとえば、雨を降らせる、病気をなおすなど、実際的、特殊的な目的に関するものは呪術の方向に近く、世界平和とか人類愛など一般的な目的は宗教に近い。
 また、利己的・反社会的目的は呪術の方向へ、公共的・社会的目的は宗教の方向へむかう。――まあ、これらは常識的な線だ。(つづく)