215 宗教を科学する(1)科学の前身は「まじない」だった!? 

ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 215

215 宗教を科学する(1)科学の前身は「まじない」だった!? 

これまで宗教と科学を対比しながら、それぞれの立場を受け売りしてきた。これからは宗教を科学してみよう。宗教を科学の目で客観的に観察し分析する。主なネタ本は東大名誉教授脇本平也さんの『宗教学入門』である。

宗教と宗教学は基本的に違うのだそうだ。宗教は個人がいわば勝手に判断し信仰する。好き嫌い、えこひいきOKである。人間的な感情で動く。
一方、宗教学は、宗教は過去いかにあったか、また現在いかにあるか、という宗教の実体、事実を問題にする。感情ではなくあくまで客観的なデータがものをいう。非人格的な科学を物差しにもろもろの宗教を比較解剖しながら人間の生活との関わりを整理するのである。

もともと「宗教」は「科学」や「呪術」と多くの共通点、相違点がある。この三者をいろいろ組み合わせて、宗教の本質を探るさまざまな試みがおこなわれてきた。主要な説を紹介しよう。(なお、呪術は日本語で一般に〈まじない〉〈占い〉と呼ばれる現象の総称)

1、呪術は疑似科学説。

呪術は科学と似ている。原始時代、科学の代用品であった。両者の共通しているところはともに「観念連合の法則」にあてはまる。観念連合とは「ひとつの観念が別の観念を連想し、新たな思考内容を形成する」という哲学用語だが、呪術も科学もそれまでの知識や経験を複雑にからませ連合して別の観念、考え方を組み立てていくというのだ。
もうひとつ似ている点は、ともに因果必然という自然法則的な世界観をもっている。こういう原因があれば必ずこういう結果になるという考え方だ。

ただ、違う点もふたつある。
ひとつは科学は実験という手段を持っており、その観念連合が客観的な事実かどうかを確かめることができる。呪術にはそれがない。
もうひとつ。従って因果の法則が客観的に妥当するのが科学だが、一方の呪術は単に主観の世界だけで信じられ、思いこまれているにすぎない。

次に呪術と宗教の違う点。
まず宗教とは「自然や人間生活のコースを左右し支配すると信じられている人間以上の力を信じ、これにすがり、恵みを与えてくれるように祈ること。そうすることによって自然は順調に、人生は幸せになると信じること」と定義する。そのうえで、自然も人生のコースも科学や呪術のように原因―結果が必然的に決まるのでない。人間以上の力が人間の願いを聞き入れてコースを変更してくれるのを期待するというのが宗教である。

たとえば気圧配置などから必然的に雨を予測するというのが科学的考え方。雨を願う儀礼をやればその効果で機械的、必然的に雨が降るというのが呪術。これに対して宗教は祈る相手を人格的、意識的に受け止め、人間の願いや頼みを聞いて応答してくれるような力を想定するのだ。

だから、宗教は対象に敬意を払ってへりくだるのに対して、呪術は非人格的な力を自分の思うように操るという態度、という違いが生まれる。

では、宗教と呪術はどちらが古いのだろうか。
太古の人類は呪術を中心に生活を営んでいたが、やがて呪術儀礼があまり役立たないことに気付く。降雨儀礼をしても雨が降らない。そんなことにがんばってきた自分たちの無力、馬鹿さかげんへの反省から自分以上の力に頭を垂れて従おうとする。そのとき、宗教が生まれた。これが宗教起源論の1つの仮説である。

これに反論するかたちで、呪術はむしろ宗教に近い、宗教と呪術は姉妹の関係だという考え方が登場する。呪術は疑似科学でなく、疑似宗教である、という説を次回に書く。(つづく)