214 宗教と科学(38)落語の小噺に学ぶ宇宙探求の意味

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214 宗教と科学(38)落語の小噺に学ぶ宇宙探求の意味

宇宙誕生のシナリオづくりは前途多難だ。科学はまだその基礎づけさえできていない。それでも勝彦先生の科学魂はひるまない。
――確かに人間の脳の認識できる世界には限界がある。人間とは、しょせん35億年前、前単細胞生物として生まれた核酸とタンパク質の機械にすぎないのだから、とへりくだったうえで次のように反論に転じる。

「いまや人間は本来の肉体を越えるツールを手に入れた。エックス線望遠鏡、ニュートリノ検出器、電子顕微鏡加速器などなど。科学革命はいまも続いている。人間に本来備わった感覚器官を越える機能がつぎつぎと蓄積されていくのは間違いない」

ここまではよくわかるのだけど、ここから先はちょっと足踏みしてしまう。
たとえば、「SFで語られているような電子装置と脳との結合や、多数の人間の脳の直接的結合は100年スケールの未来でいうなら決して夢物語でない」とか、「遺伝子工学の進展で、自己設計による人間改造の時代がくる」とかいうくだりである。人間の科学的改造、人間の遺伝子組み換え、人間の品種改良までを駆使して、勝彦先生はあくまで科学の未来を謳歌し、宇宙の解明を誓うのだ。何のために科学はそこまでしなくてはならないのだろうか。

この局面から二人の優れた宇宙論者、勝彦先生(佐藤勝彦前東大教授)と文隆先生(佐藤文隆京大名誉教授)の考え方が分かれる。
文隆先生の著書『素粒子と宇宙』(岩波書店)には、科学がそこまでやる必要があるのか、という疑問符が投げかけられている。

まずふたつの前提。
「人間は実在する時間や空間を人間の五官が認知するのだと思いがちだが、それは自明なことでない。目のない生物がどういう状況把握、世界像を描いているか興味がある」ーー科学者の定義する宇宙像は人間の感覚器官がそう受け取っているだけの話。
「量子の変幻自在な変化を人間はまだつかみ切れていない。科学者がいま定義している宇宙像はたまたまそういう状態にあったときの、ある時点の観測結果にすぎない」ーー量子が別の状態の時は別の時空(宇宙)が存在する。
 要するに、いまの科学では唯一正しい宇宙像を突き止めることはできないのだ。にもかかわらず、科学を信仰する人々は宇宙を一挙に解明できる根本法則が存在すると錯覚している。その距離はあまりに大きすぎると文隆先生は指摘する。
そして次のような落語の小噺を引用している。

長屋の熊さんが、物知り顔の隠居にたずねる。
熊「ご隠居さん、大阪から西に行けばどこへ行くんです?」
隠居「尼崎に出るな」
熊「尼崎からもっと西に行けばどこに行くんです?」
隠居「山陽道を通って九州に出るな」
熊「九州を西へ西へ行けばどこに行くんです?」
隠居「海があってそれ以上行けないよ」
熊「海の上を舟に乗ってどんどん西へ行けばどこへ行くんです?」
隠居「行けども行けども海だ」
熊「その海をどんどん西に行けばどこへ行くんです?」
隠居「濛々としたところへ出るな」
熊「そのもうもうとした所をどんどん西へ行けばどこへ行くんです?」
隠居「たいがいの者はその辺でひっかえしてくる」

この引用に文隆先生は含蓄深いコメントを加えている。
「この小噺は素人の好奇心のいい加減さを笑いものにしているわけだが、隠居の最後のセリフは人類の知恵について考えさせられる。旅とか探検は帰ってこられねば意味がない。新世界への突入の深さに価値があるのでなく、新世界から帰ってきて新世界での見聞を吹聴して得意になれることが肝心なのだ。つまり〈折り返し点〉の見定めがつかないようでは人間の知恵が足りない。」

文隆先生によれば、人間の宇宙研究はそろそろ折り返し点を意識し始めねばならなくなっている。その理由は二つある。

1、 いまや新世界と現実世界の距離があまりにかけ離れてしまった。物理学の数学抽象主義が専門的になりすぎたことも一因で、これまでのように他分野への応用ということも期待できなくなった。(文字通り研究のための研究となり果ててしまったということか?)

2、 探求費用が巨額になりすぎた。冷戦時代のように採算を無視した費用負担で軍事技術が進歩したように人々が「意味のわからない」研究にいつまでもお金を出し続けるだろうか? あるいは人々が何百年にもわたって宗教に捧げたような情熱と献身を科学の探求に対しても持ち続け、その費用負担を引き受けるのかどうか?(科学者たちのゲームに納税者はいつまでも付き合っておれない?)

 いまや科学は、「現実世界と科学が取り組んでいる新しい宇宙世界との離れすぎた距離をどう縮めるか。そして人間の賢明とは何か」を意識しながら宇宙探求の方向を見定める時期にさしかかっている。これが文隆先生の結論である。
科学者が気負えば気負うほど、宇宙は無限の謎を広げて遠ざかっていくようだ。落語小噺のもうもうとした果てに、ボクはふと超越者の影を見てしまう。その方が気が楽になる。