201 宗教と科学(25)宇宙の始まりを問う愚かさ

     ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 201

201 宗教と科学(25)宇宙の始まりを問う愚かさ 

 宇宙の始まりを素人に説明するのはどんな専門家でもむつかしいらしい。それは前回、佐藤文隆京大名誉教授の『宇宙を顕微鏡で見る』から受け売りで紹介した。専門家の佐藤さんは日ごろこうした質問に辟易しているのだろう、宇宙の始まりを問うナンセンスさを繰り返し述べている。
「性急に宇宙の始まりだけに関心を持つ人がよく尋ねるのは〈なぜ爆発したのか?〉〈なぜ膨張宇宙なのか?〉だ 」
この問いも前回の「時間」の問題と同様に、〈問い〉そのものがおかしい、とおっしゃる。

その理由をアトランダムに要約してみよう。じつは佐藤さんの原文もけっこうアトランダムに、やや荒っぽい、いい加減にしてくれよという口調に聞こえる。ボクの感じたことは(カッコ)内に注釈みたいに挿入した。

ーー「もし膨張がなければ火の玉宇宙のままであって、知的生命(人類)も発生していない、そうすると、なぜ膨張してないのかという問いさえ存在できない。宇宙が胎児―赤ちゃんと成長(膨張)し、その結果として知的生命(人間)があるのだ。だから『なぜ膨張か?』を問うのは『なぜ自分はここにいるのか?』という哲学じみた問いと同じである。『われ思う、故にわれあり』なのである。」

(注・佐藤さんのこのくだりはちと乱暴じゃないか。八つ当たりされているみたいだ。すなわち質問を発する主が知的生命であろうとなかろうと、また、自らの出生源が宇宙であろうとなかろうと問題ではない。要は宇宙の始まりを問うているのだ、あなたにはそれだけを客観的に答えてほしい。ほかのことはとりあえずけっこうです。)

――「赤ちゃん宇宙にさかのぼれば、ほかにも宇宙は無数にさまざまなものがあった。けっして『この宇宙ひとつ』じゃないのだ。これら無数の赤ちゃん宇宙から偶然が重なってその一部が膨張宇宙になり、さらにその一部に知的生命が生じただけのことだ。だから『なぜ膨張か?』」という問いは、知的生命をはらまなかった無数の宇宙のことを忘れている。そんな野暮な問いには『わが身のありがたさを考えてからその問いを発せよ』と答えればすむことである。
(注・佐藤さん、ボク等の無知をそんなに突き放さないで。無数の宇宙についてはまたのちほど教えてくださいね。)

「われわれの宇宙は決して『宇宙』という言葉に付きまとっている『唯一』とか『普遍』といった性質を備えたものではない。没個性でノッペラボーの存在ではなく、あれこれの特性を備えた個性的な具体的存在である。」

(注・前の200回の説明でなんとなくわかりました。)

「人間はこの宇宙にいろいろ意味を与えている。だが宇宙から見れば人間はとくに意味のない存在だ。人間がこの宇宙に意味を与えなければ宇宙も本来は無意味な存在なのである。人間が描く宇宙は人間が考えたものだが、それは勝手なものでなく、実験と矛盾のないものにするために絶えず書き換えを行っている。だれかがすでに知っているわけのものでもない。人間がつくりつつあるのである。その宇宙という作品は人間と遊離した何者かでは決してない。」

(注・ここは急所を突かれた。なるほどと納得せざるを得ない。宇宙だって、お月さんだってボクらが勝手に仰いで、勝手に気宇壮大になったり、悲しんだりしているだけなのだ。スミマセン。
ただし、もし屁理屈を言わせてもらえれば、人間が意味を与えなければ本来、宇宙には意味がない、とあるが、それはだれが裁断したのか、聞かせてほしい。宇宙誕生について決定的意味づけ、証拠もないいまの段階で得手勝手な独断でないでしょうか。立場によっていろいろ価値観、意見の違いがあるはずだ。)

「ビッグバンの宇宙創成論は宇宙がこれからも絶えず新しい初めての状態に突き進んでいることを説明している。未来は基本的に未知である。われわれはこれからも常に後追いで原因を探っていくだろう。それは『開拓者としての人間』というイメージである。人間はしばしば何かの権威とのつながりによって自分の地位を明らかにしようとしたけれど、しょせんはなんのいわれもない出生なのである。人間は大平原に立った開拓者のようにいわれのないところに杭を打って生活を創り出し、いわれを創り出してきたのである。この健気さをよしとし、開拓者コミュニティの連帯をこそ感ずべきである。」

(注・権威とのつながり、というくだりはキリスト教批判ですね。キリスト教は確かに宇宙を盾に神をまつりあげ、人間と生き物に関しても権威的で差別的だ。キリスト教にはいっぱいいいところもあるが、ここらはまさに一神教の致命傷、泣きどころだとボクも思う。)

ところでこの文章は、地球号で宇宙の果てへ向かっている者同士の連帯をくすぐるなあ。でも、これって、おセンチだね。非科学的だね。宇宙の奥の奥へ紛れ込んでしまった科学者パーティーが、はるか後方の一般素人に連帯を無理強いしているようにもみえるぜ。

そういえば、科学者パーティー難行苦行の果てにやっと山頂にたどりついたら、そこにははるか以前に登頂していた宗教者パーティーが待ちくたびれていて「お疲れさま」と手を差し伸べたという比喩を思い出した。宗教者サイドがつくったものだろうが、開拓者気取りで、無駄骨を折り、結局到着の遅い科学者を揶揄している。(つづく)