200 宗教と科学(24)宇宙の始まりをイメージしにくいワケ 

    ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 200

200 宗教と科学(24)宇宙の始まりをイメージしにくいワケ 

この限りなく広大な宇宙も、かつては赤ちゃん時代があった。いや、その前には体長1センチの胎児のときもあった。そこまで、つまり180億年前まで現代科学は実証的にさかのぼることができると佐藤文隆京大名誉教授のお墨付きである。科学のすごさはわかる。しかし、ボクはどうもすっきりしない。1センチとはいえ、胎児とはいえ、胎児をはらむには何か原因があるだろう。人間だってただでは子供は生まれない。現代科学は宇宙が胎児になる直前がわからない。胎児になった原因がつかめない。宗教はそこに意味を見つけようとする。たとえば神、造物主といったものをイメージするのだ。

宇宙が誕生するその前は、その先は…と次々さかのぼって駄々っ子のように尋ねたがる性癖はボクだけでないらしい。佐藤さんは『宇宙を顕微鏡で見る』(岩波現代文庫)の冒頭部分で、宇宙とそのほかの〈始まり〉の違いを懇切に説いている。言い回しはややこしいが、よく吟味すると、ボクのような門外漢でもなぜ宇宙の始まりが一般人に説明しにくいか、その理由がほの見えてくる。次のような趣旨だ。

「あらゆる事物に“始まり”はある。始まりを語るにはそれがまだない状態を想像しなければならない。たとえば京の都の始まりについて考えてみよう。平安京が作られる以前の山城盆地を想像するのはそれほど困難でない。事物の始まりはある空間での何らかの物質の時間的な変化で説明できる。しかし、空間や物質や時間があること自体がすでに宇宙があることだから、宇宙そのものの始まりは語れそうにない。」

たとえばこういうことだろう。京の街に立って人や建物や賑わいの光景を見た後、目をつむって山々に囲まれた山野の広がりを想像してみる。そこには千二百年前の京の始まりが浮かんでくるかもしれない。京の今と昔を比べる素材がそこにはある。<ある空間での何らかの時間的な変化>がうかがえるのである。獣たちが行き来した荒野は舗道になり、しゃれた建物が建ち並び、着飾った人々が群れているとか…。空間とか物質の有無、時間の推移という手がかりが残されている。しかし、宇宙には誕生前と誕生後を比較する具体的なものがない。誕生後はともかく、誕生前はーー空間も物質も時間もまだ出現していないのだ。宇宙が誕生する前には、〈物質の時間的変化〉を見届ける具体的な素材は何もないのだ。科学の推論や哲学の理念による説明しかない。だから一般の人々には具体的なイメージがわきにくい。

もうひとつ、佐藤さんは「宇宙の始まり」という問いはほかの一般的な「起源論」に比べて特殊事情があると強調する。それは宇宙に対する人々の勝手な思い込みだ。宇宙といえば、人々はつい「無限」「普遍」「唯一」「全体」「不滅」「調和」…といったものをイメージするというのだ。
そして続けてこう書く。

「こういった宇宙のイメージは何か具体的な宇宙の事物を指すというよりは、それらを超えた彼岸の形而上学的な存在に対して、勝手に性格づけしたものである。この彼岸の存在の中から具体的に認識された部分を引き出していく作業を宇宙についての科学がおこなっている」

この指摘はボクにぴったりあてはまる。無限というイメージが宇宙をいっそう神秘的にし、形而上学的、理念的なものにしているのは事実だ。ボクは何やら宗教的な雰囲気になるとき、断片的にしろ、無限の宇宙の一部分としての大空をまぶたに浮かべることが多い。
じめじめした土の中でなく、どこまでも広々とした大空の果てに思いを馳せて、亡くなった親しい人に語りかけたり、「いまの悩みなんか小さい小さい」と自分を慰めたり、宇宙にではなく、「無限や全体、不滅」のイメージになにかをアピールしたり、あやかろうとしている。

「死者とボクの命は連綿としてつながっているのだよ」、とか、「この世のつらさなんて、ほんの一瞬なのだ、忘れてしまえ、この大きな空がなにもかも呑みこんでくれる」――などと納得しようとし、束の間でもそんな気分に浸り、涼やかな精神状態になる。まあ、ならない場合もあるが、なったように思いこむことができる。
このようにボクの場合、宇宙と宗教的な心情との結びつきは大きい。そういう人はきっと少なくないと思う。

佐藤さんの前述の「彼岸の形而上学的な存在に対してうんぬん」のくだりには、こういうケースへの皮肉やあてこすりが込められているのでないだろうか。ボクのひがみだろうか。
 宇宙という言葉に勝手にイメージを膨らませて酔い痴れるのはおかしいよ、宇宙と言ったって、煎じ詰めれば「たかが宇宙なんだから」。佐藤さんはあたかもそう言いたげに、いろいろ書いている。それは次回以降に。(つづく)