198 宗教と科学(22)宇宙の起源や自然を人類は解明できるか

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198 宗教と科学(22)宇宙の起源や自然を人類は解明できるか 

 「宇宙はどこから来てどこへ行くのか」――これこそ歴史の黎明期から人類が問い続けてきた最大のテーマだが、その研究分野はこれまで宗教や哲学など理念的なものに限られていた。しかしいまや、宇宙物理学の飛躍的な発達でこれは科学のテーマにもなっている、と田中裕教授は強調する。

そして「人類は宇宙の全体を一つの物理的対象として扱う段階になった。物理的宇宙のスケールよりもむしろ宇宙の全体を捉え得た人間の精神の広大さのほうに驚嘆すべきかもしれない」と科学の成果を称えたうえ、『宇宙の始まり』について述べた哲学者カントの有名な『純粋理性批判』にも触れてつぎのように書いている。
「人知の限界を探求するカントの課題が装いをあらたにしてよみがえったというべきだ。カントの批判哲学が深く自然神学の問題にかかわっていたようにわれわれを含む宇宙の全体を学問的に問題とする現代宇宙論も間接的に自然神学上の問題にコミットせざるを得ない」

ここで田中論文から離れて、カントをチェックしておこう。彼は宇宙をどういう方法で、どう認識していたのか。例によっていろいろな解説書からの受け売りである。

 哲学は中世以来、ずっと世界(宇宙)の起源、始まりの第一原因を求めてきた。そしてほとんどの哲学者がそれは神であるとし、その存在証明をおこなった。20世紀最大の哲学者といわれるハイデガーでさえ、ライプニッツの「なぜいったい存在があるのか、そしてむしろ無があるのではないのか」を究極の起源や根源をめぐる問いとして高く評価している。ライプニッツは世界の原因や理由を最後まで推論していくと、そこに世界誕生の目的と意味を与えている神が存在すると主張したのだった。

 これに対し、カントは伝統的な権威や神など外的な根拠に頼らず、あらゆる権威を徹底的に批判することを中心に据えた批判哲学を大成し、近代哲学の祖とされる。自然科学に精通し、人間の理性でさえも批判の対象として、より客観的、科学的認識に近づけようとした。
いったい彼は宇宙の起源をどう理解しようとしたのか。
 
カントがとったのはドイツ語でアンチノミー(二律背反)という方法だ。あるテーマについて二つの対立する考え方(正命題と反対命題)がある。双方とも正当性をもっており、私たちはそのどちらが正しいのか、じつは選ぶことができない。それをカントは論証してみせたのである。世界を理解するための最重要テーマとしてカントがあげたのは4つ。その第一に位置付けられているのが「世界の始まり」である。
 
 正命題は世界の始まりは「ある」とする立場。ではその起源はいつか?何か?の問いを次々さかのぼっていくと、最終的には「ビッグバン」にたどり着く。しかし、この推論にはきりがない。ではビッグバンの前は、さらにその前は、と私たちの問いは無限にどこまでもさかのぼっていくからだ。

 この反対命題は世界の始まりは「ない」。この立場をとるなら、世界は無限の過去、永遠の昔から存在するということだが、現在から永遠の過去にさかのぼることが不可能なように、無限の彼方にある過去はいつまでたっても現在に到達することがなかったはずだ。

 要するに、どちらが正しいのか、両者の板挟みになってけっきょく正解はみつからないのである。カントがこのアンチノミーの論法でいいたかったのは、私たち(主観)は自然や客観的なもの、究極的な存在、起源や根源を決して把握できないということだ。カントはこれら客観的なものを「物自体」と名付けた。「人間は物自体(起源、究極的なもの、絶対的な真理)を把握することはできない。それは神しか認識できない」として物自体を人間の認識の外に仕分けしたのである。

 近代的合理論の哲学者たちは「自分たちの考え(主観)は、世界、自然(客観)と一致する、究極のものを言い当てることができる」と主張し、それぞれの立場から世界のイメージを打ち出した。しかし、カントはこれをアンチノミーによって粉砕したのだ。では、私たちは何によってものを認識するのか。カントは徹底的に主観をそぎ落とし、「普遍性」という概念を用意するのだが、このあたりは説明が長くなるから省略。

 冒頭で田中さんが「人知の限界を探求するカントの課題が装いをあらたにして…」と述べているのは、かつてカントが人知の限界であり知ることはできないとした宇宙の起源がいまや現代宇宙論によって解明されつつあるということを下敷きにしている。  
 それはほんとうだろうか。
次回はビッグバンをめぐるローマ法王と、車いすの天才科学者・ホーキンズの応酬を中心に受け売りを続ける。(つづく)