197 宗教と科学(21) アインシュタインのこだわり

    ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 197

197 宗教と科学(21) アインシュタインのこだわり

 生き物は一個の宇宙である、とはよく聞く言葉だが、前回までの清水博さんらの文章を読んで、なるほど、とうなずかされることが多かった。このあたりで生き物からもう一度大空に広がる物理的宇宙に目を転じたい。宇宙関連の話は本ブログでも171回ぐらいから数回にわたって書いたが、今回は宇宙論そのもの(といってもむろん専門書ではない、わかりやすく書かれた解説書であります)の中から宗教的というか、非科学的な雰囲気を探してみる。

生命科学などの分野に比べ、宇宙論には宗教的な匂いが希薄だ。個々の「いのち」と縁遠い位置にいるせいだろうか。新刊、古書あわせて十数冊買ってきて斜め読みしたが、言い回しが難しい、専門用語も多い。老いた頭にはなかなかスムーズにはいってこない。厭になって放置していた。最近気を取り直して再読すると、なんとなくそんな雰囲気の箇所がみえてきた。

その手引きをしてくれたのは科学哲学が専門の上智大学教授田中裕さんの論文『現代宇宙論と宗教』(岩波書店)である。
田中さんは「おびただしい数の(宇宙論)啓蒙書が書かれているにもかかわらず、現代宇宙論の提起する宗教的および神学的問題が何であるかについては、いまだ十分に論じられていない」と一発打ち上げた後、こう続けている。

「宇宙の進化の過程において新たに生じる情報と秩序の源泉として神の存在を間接的に論証する議論は欧米の科学者や神学者によってなされた例はある。しかし、一般に科学者はこうした考察に不慣れで、現代の神学的議論に関する無知ゆえに古色蒼然とした思想を前提にして議論をしてしまう」

その一方で神学者に対しても「現代科学の諸理論が時空、物質、因果性に関する科学者の常識をいかに変化させたかということに無知であるために、現代宇宙論の提起する諸問題をやはり神学者の古色蒼然とした科学観で処理しようとする」と斬っている。
要するに、科学・神学ともに昔ながらの自家製の〈古色蒼然〉と〈無知〉で独りよがりのまま、通り抜けようとしている。だから議論がかみ合わない。不毛が続く。宗教と科学、その対立の典型的な構図がここに表れているのだ。

さて、どこに問題があるのか。田中論文を下敷きにたどってみよう。

宇宙論は現代科学の最先端」である。これはどの宇宙論の本でも声高に自慢げに書いている。
その理由は現代宇宙論には、現代の物理学を根底から変えた2大理論――マクロな相対性理論とミクロな量子力学を統合した超贅沢なスーパー理論が集約されているからだ。
宇宙というこの世で最大の時空を研究するためには相対性理論が必要だし、素粒子というこの世で最小の物質を研究するには量子力学が欠かせないのだ。
この両者が組み合わされてはじめて現在のビッグバン宇宙論(大爆発と急膨張によって宇宙が誕生した)が定着した。

ここでちょっと横道にそれて、その他の解説書からの寄せ集めで、アインシュタインのこだわりについて触れておこう。
――科学的な宇宙論を初めて打ち出したのはご存知、相対性理論を生み出したあのアインシュタインだ。宇宙のおおまかな見取り図はこれで決定した。しかし、ひとつ大きな間違いがあった。「宇宙には始めも終わりも存在しない。ずっと昔からこんな姿をしている静的で永遠な宇宙」というのがアインシュタインの考えで、膨張や収縮をしない〈静止宇宙モデル〉を構想していた。多くの科学者もまたこの構想を支持した。

その後、ロシアのフリードマンアインシュタインの方程式を解きなおし、宇宙は膨張したり収縮したりするという〈膨張宇宙説〉を発表したが、アインシュタインは方程式の解き方に間違いがあるといい、つぎに数学的には正しくても、「採用すべきでない」と否定した。5年後、ベルギーのルメートルは宇宙はもとは原子ほどの極小から膨張したと現在のビッグバン宇宙論のさきがけとなる着想を発表したが、アインシュタインはこれに対しても「物理的センスが忌まわしい」とかたくなに否定した。あくまで永遠に不変不動のモデルにこだわったのだ。

相対性理論の方程式からは静止宇宙、膨張宇宙のどちらをも導き出せることがわかっている。この時点ではどちらが正しいかわからなかった。しかし多くの科学者たちは歴史的に長く、正統的な静止モデルを支持した。それまでつねに革命的な発想で新分野を開拓してきた天才アインシュタインもここでは保守の砦にたてこもった。

わが国を代表する宇宙物理学者の佐藤勝彦・前東大教授は「宇宙の始まりを認めることは科学で取り扱うことのできない限界の存在を認めることであり、一般に科学者の好むところではない」と書いている。
ただ、アインシュタインは「この宇宙にはなにか造物主のような存在があるとしか考えられない、そんな何かがある」とし、「宗教のない科学は不具、科学のない宗教は盲目」と言ったことは広く知られている。(つづき)