195 宗教と科学(19)生き物の一生は「即興劇」

ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 195

195 宗教と科学(19)生き物の一生は「即興劇」

生き物は環境の絶え間ない、思いもかけぬ、複雑な変化に全身の細胞や器官を駆使して自在に対応している。それは科学では論理化できない、謎のシステムである。清水博東大名誉教授(生物システム学)はこの動きを即興劇に見立ててリアルタイムな生き物の自動制御ぶりを説明している。

即興劇を演じる役者はむろん生き物の細胞や組織、器官たちである。決まった筋書きはない。環境(観客)の変化(要求)に応じてそのつど対応していく即興のドラマだ。
もっとも重要なことは彼らの同時性である。状況に応じて役者たちが物事を認識し、それに合わせて協力して動く。そのためには非常に多くの筋肉が調整しあい、全体をまとめていかねばならない。生き物は全体をコーディネートする自律的な統合機構を備えているのだ。

役者たちはそれぞれ内部時計を持っている

清水さんは、役者たちはそれぞれ体の中に〈内部時計〉を持っていて、全員がタイミングを合わせながら調節しているといい、内部時計の仕組みをつぎのように説明する。
たとえば人間が歩くとき、両足の各関節を動かす筋肉だけでなく、両手の筋肉をはじめ体中の多くの筋肉がその動きに合わせてリズミックに収縮と弛緩を繰り返す。このリズムは脊髄の内部にある神経節がリズミックに興奮することによって作り出されるが、クオーツの腕時計のように固定したリズムではない。
脊髄の神経のリズムは両足をリズミックに動かすが、その足は地面という環境に対して働きかけ、地面から反作用を受け、その力を利用して歩くのだ。地面という環境からの反作用がなければ「宙を踏む」。前へ歩くことができない。

さらに地面は平らな舗装もあれば、でこぼこ道もある。坂道は重力の影響で足の動きが遅くなったり、速くなったりする。脊髄の内部時計が道の状況に応じて興奮のリズムを変化させているのだ。一方的に働きかけるだけでなく、反応に合わせて進み方も調節するところに生き物の内部時計の特徴がある。

全体を統合するもうひとつの内部時計がある

役者たちの動きについてはどうか。
めいめいが勝手なタイミングで演技をすると劇は成り立たない。かといってセリフから身のこなしまで事細かに定められ、その指示通りに演技すると、これは〈機械じかけ〉の部品になってしまう。生き物の即興劇にはシナリオがほとんど決まっていない。役者は劇の進行に応じて即興的にそれぞれが全体の動きに合わせて演技をしなければならない。観客(環境)の要請にこたえながらドラマを進めていくのだ。
以上をまとめると、各役者はそれぞれミクロな内部時計を持ち、それに合わせて自律的に演技をする。つぎに、全体を束ねる大きな内部時計があり、時間を同調させ、全役者の演技をコーディネートする。つまり大小、2種類の内部時計が必要なことがわかる。これが生き物が環境に合わせて生きるための自己創出現象の秘密なのだ。

即興劇の終わりは「死」

次に即興劇の終わり、「死」はどのように訪れるか。ここの説明はちょっとややこしい。清水さんの論旨を順に並べてみる。

:即興劇の進行とは、役者たちが集まった内部(舞台?)で、規定されていない状態を役者たちが協力し合って自己規定していくプロセスを指す。言い換えれば、生き物が自らの不完結性を完成へ埋めていく作業。
:一度規定された部分は内部自由度から除かれる。つまり、劇の進行につれて内部自由度は減り続けていく。完成に近付けていく。
:生き物の発展成長にはこのように筋が固定されながら進むことーー自由度の連続的な減少という代価が支払われることが不可欠である。
:役者たちがその内部自由度を使い切り、それ以上新しい創出ができない状態がいつかくる。そのとき、即興劇は完結する。生き物は死に到達したのだ。
:生き物が死ぬこともなく即興劇を続けるには、筋の発展を捨てる必要がある。(ボクの注・わが老母のような認知症や老衰の老人はこんな状態になるのだろうか?!)

即興劇と反対の方法で生き物を理解しようという立場は先にも述べた行動主義だ。近代科学の原理に合い、生理学、分子生物学へも応用され広く一般化した。一定の成果を収めたことは事実だが、それは原因と結果を明確に結ぶ因果律的側面から眺めた生き物の性質に限定される。生き物が持つ主体性や即興性を無視し、それを除いたうえでの成果にすぎない。関係性を無視し、取り出した個別の要素だけで生き物全体を理解しようとする、科学的要素還元主義だ。そこには「複雑なシステムとしての生き物」という観点が大きく欠落している。
まことに生命は複雑で謎につつまれているのだ。

機械論的因果律の手法は自然科学のみならず、社会科学などにも大きな影響がみられる。経済活動や企業活動などを機械論的モデルでとらえようとしてきたが、めぼしい成果はない。ここでも「生命関係学の観点に立って、経済活動や企業活動などを一種の即興劇としてとらえることが必要だ」と清水さんは結んでいる。