194宗教と科学(18) 人間の「不完結性」が宗教を誘う

      ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 194

194宗教と科学(18) 人間の「不完結性」が宗教を誘う

 生き物は危機や出来事に直面すると、そのつど、主体的に反応する特性をもっている。〈科学〉で決められた手順通りに反応する機械と違うところだ。生き物のその仕組みは近代科学もいまだに突き止められない。科学の枠を超えた生き物のこの主体性が、常に不測の事態の連続である環境に順応して生き抜き、進化してきた秘密なのだ。清水さんの受け売りを続けよう。

 人間を含む生き物が生きるとは具体的には環境の中で生きるということだ。その環境に向かって開かれているのが生命である。環境との物質や情報のやりとりで生き物は生きていける。環境の変化は〈科学〉のように、事前にスケジュール化されていないし、予測できない。予測できない環境の変化にも適応せねば生きていけない。病気にかかると免疫機能が働く。不意のけがでも修復する機構を持つ。環境に応じて擬態など動物や植物の体が変わる。

高等動物になると、推論という情報処理を使って初めて遭遇したできごとを乗り切ろうとする。新しい局面にも直ちに対応手段を生き物自身が作り出す、しかもそのリアルタイム性が重要なのだそうだ。

 清水さんは書く。
「もし人間の認識、判断、行動のすべてが遺伝子によって予め決定されていたら、その決定からもれた出来事に遭遇すると、対応する手段がなく生き続けることはできない。そういう手段を持たないバクテリアなど単細胞生物は莫大な子孫を残すことでカバーしている。単細胞生物から多細胞生物への進化によって起きた著しい特徴はリアルタイム型の解決法を獲得した点だ。これによって基本的に個体死を避けられることになった。」

 人間など高等動物のこの解決法の仕組みを利用しようとしているのが電力の供給制御システムだそうだ。予期できない原因で事故が発生し、発電と供給のバランスが崩れると大事故になるが、それがどんな事故になるか、わからない。電力会社では人間の判断を加えて自動制御をしているが、供給の系統が極めて複雑なので人間の判断にも限界がある。つまり、必要な制御ルールを予めすべて与えておくことができないので「(高等動物のように)予測されないケースでも推論に基づいて必要な操作情報をリアルタイムに自在に作り出す能力を自動制御システムに入れる研究をしている」そうだ。

ここのところはちょっとややこしい。
人間が後天的に習得した知識と経験による判断や、科学によるシステム装置より人間を含む高等動物が本能的に授かっているシステム原理のほうが有効ということなのだろうか。

清水さんは高等動物に授かったリアルタイム型解決法を〈自己創出システム〉と呼ぶ。この原理はまだだれによっても解明されていない。生き物自体が内部から臨機応変に編み出すのだ。機械と違ってあいまいで、型にはまらず、完成されたシステムではない「不完結性」の状態。言い換えると「内的自由度」がある。これがじつは生き物が自在に創出的な振る舞いのできる原因とみられる。

さらに「不完結性」の発想は意外なところに展開する。
不完結性、未完成ということは、状況に応じて自在に振る舞えるフリーさをもっているが、その不完結性ゆえに個体だけでは安定して存在することができない。外に向かって開かれ、連帯を求めている状態。結婚の安定でなく、遊び相手を物色する自由で不安定な独身の条件を残しているとでもいえそうな…。

清水さんはこう書いている。
「この不完結性があるからこそ、人間と人間、人間と動物の間に〈交信のチャンネル〉が開き、互いに相手の意識を自覚し合うことができる場合がある。そしてそこにこそ生命の自覚が生まれる。それは個別的な意識や生命が集合的な意識や生命となるときである。」
わが家の元ノラの飼い猫の視線とボクの視線が重なったとき、妙に気恥しい思いが走る一瞬がある。あれもなにがしかの交信なのかしら。

さらに「文化や宗教や教育なども、この不完結性が存在していることによってはじめて可能となるものである。またこの不完結性の重要さはこれだけでなく、たとえば遺伝子が異なった他人の臓器を移植することができるのもこのためである。この関係はさまざまな個人と組織・社会、さまざまな国と国際社会、さまざまな生物と生態系などにもみられる生命に特有な構造を形づくる」

不得手な理系の専門語が続いてうんざりしていたが、文化、宗教、教育、国際社会などという身近な言葉に出会ってほっとする。
そして社会的動物である人間はつねにだれかを求めている存在である。それは外側の環境においてだけでなく、自分の内側でも他者との関係を無限に近い組み合わせで生きていることをあらためて知らされる。(つづく)