193宗教と科学(17)近代科学が初めて味わう挫折

      ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 193

193宗教と科学(17)近代科学が初めて味わう挫折

「科学の進歩には限りがないが、いくら進歩してもその先は空だ」と高名な物理学者だった富田和久京大名誉教授が亡くなる少し前に言った。
いまから18年前、当時東大教授だった清水博さん(生物システム学)はこの言葉にショックを受けたという。「科学の先の空」とはどのような世界なのだろう?
宗教と科学をテーマに清水さんの『論点としての〈生命〉』、『生命科学と宗教』の2論文をなぞってきたが、つぎは『生命科学から見た生命』を斜め読みしてみよう。

         スパコンもかなわない生物システム

生き物は複雑なシステムで生きており、たとえその構成要素がわかっても、科学的な因果律(すべての事象は必ずある原因で起こり、原因なしには何事も起こらないという原理)が通用しないので、システムを解明することはできない。スーパーコンピュータを駆使してもかなわない。そこに生物システムの複雑さがある。
 「これまで絶対的な信頼性が保たれてきた近代科学が、生物システムという新しいタイプの問題と出会ったことで、はじめてその論理的有効性に強い懸念が生まれてきた。」と清水さんは強調する。これから迎える「多様性と関係性」の諸問題を解くために、近代科学はより総合的な科学に生まれ変わらねばならない、と説く。

 近代科学のどこが不備なのか、具体的に見てみよう。
 ここに一匹の犬がいる。
この犬がいま何を考えているのかを知りたい。いまの科学はそれをつぎのような方法で実験し、答えを出そうとしている。
 まず犬の脳に電極を突っ込む。そのうえで、いろいろな刺激・信号を与える。犬は興奮して様々に反応する。そのときの脳の神経細胞の動きを丹念に記録し、解析する。どのようなメカニズムによって神経細胞が活動するかを推論していく。そのプロセスから動物の考えていることを体系的に割り出そうというのである。これは行動主義と呼ばれる手法で、現在もっともポピュラーに行われている。

             行動主義の欠点

 だが、このやりかたには、じつは大きな盲点がひそんでいる。
この方法は、動物に刺激を加えれば必ず反応があるーー原因と結果は因果律的(すべての事象は必ずある原因で起こり、原因なしには何事も起こらないという原理)にストレートに結びつけることができるという仮定が大前提になっている。ところで、この大前提は本当に正しいのか?

結論からいえば、正しくないというケースが少なくない。
実験の結果、同じ刺激や、信号を受けた動物たちでも、反応を示さなかったり、同じ行動に出なかったり、まちまちなことがわかっている。「人さまざま、動物さまざま」、決して規則的でないのだ。「生き物はコンピュータや機械と違ってあいまいな情報処理をしている」とよくいわれるのはそのためである。
生きものは型にはまらない自由度をもって行動しているのだ。だが、反応を示さない、あるいは異端な行動をする少数派は論理づくりから外されて実験結果が出されるのである。

たとえば高等動物の脳の神経細胞の働きのうちで大前提通りに因果的に反応する神経細胞は数パーセントにすぎない。多くの細胞はめいめいが不規則に勝手に変化しているという。人間だって同じ環境条件に置かれても、考えたり思ったりすることはカオス(混沌、無秩序)のようにそのつど変わるものだ。
動物側に自覚があるのかどうか、その自覚がどんなものか、科学的に客観的に知ることはできない。
もっといえば、仮に動物の自覚を人間が知ることができたとしても、それを人間の言葉で正確に表現できるだろうか。人間だって自分が自覚していることをすべて言葉で正確に表現できない場合が多いのだから。

       関係性の中で分かち合う生き物の「生命の自覚」

ところで人間と人間が、あるいは人間と動物が、互いに相手の心、気持ちを分かった、分かり合えた、と思う瞬間がある。清水さんによると、それが生きとし生きるものが分かち合う「生命の自覚」だ。それこそ個別的な生命が集合的な生命になるときだという。これを生物学でいえば、個別的な生命が集まってより大きな生命を生み出すが、同時に、個別的な生命の相互作用によってその大きな生命体に安定性を与えているのだそうだ。ミクロな生命とマクロな生命の相互依存関係というやつである。要するに相手次第、相手あっての自分、つまり、関係性が生命を理解するポイントなのだ。
ところが科学的手法は分離、切断、対象化がお家芸だ。関係性を切り離すのをモットーとする。それは生命の理解にはなじまない。(つづく)