192宗教と科学(16)水墨画の空白、ガウディの公園の土くれ

     ノラ猫たちとさまよったボクの仏教入門 192

192宗教と科学(16)水墨画の空白、ガウディの公園の土くれ

人間や動物は外界からさまざまな情報を取り入れて自分の中に「認識マップ」をつくる。このマップにめいめいの世界像を描き、そのなかの自分の立ち位置を確かめ、判断し、行動するわけだ。

人間のマップは動物に比べ固定部分が少なく、流動性がある。白紙の部分が多く自由度が高い。だから新しい情報を取り入れやすいし、より創造的な要素を描き込むことができるのだ。その構成はちょっと日本の伝統的な水墨画や庭園など、それに仏教の「無や空」の精神にも通じるところがあるのでないか、と清水博さんはユニークなことを書いている。

水墨画には何も描かれていない空白がある。むろん未完成なのでなく、逆に深い意味を表現する重要な役割を持っている。空白そのものは意味を表わしていないが、他の部分と関係づけて眺めることで意味が出てくる。ほかにも能の一連の所作や、音楽演奏の〈間〉の取り方などがそうだという。
これらの「空白や間」は、あらかじめ意味が定められていない。そこに意味を埋め込んでいくには人間の意識の側にも定められていない情報を扱うルール、ノウハウといったものが用意されている必要がある。こうして人間は外部の情報と内部の意識を調和しながら、新しい認識と理解を生み出し、自身のマップを更新していくのだ。

もう一つの例は、幻想的な作風で知られるスペインの建築家ガウディの作ったグエル公園だ。清水さんは「近代建築のように規定され、押し付けられる固形化した意味とは違って、人間が意味を与えることができる。ベルサイユ宮殿の規定された美しさと対極の精神でつくられている。規定されていないということで、禅の芸術に似ている。」と書く。

この公園の人工構築物と自然の間には、単に土くれがそのまま放置されているとしか思えない部分が随所にある。それだけを見れば、未完成な〈空白〉だが、全体の中でみごとに調和され、完成している。竜安寺の石庭に共通する精神性があり、これは禅や仏教の重要な概念である「無」や「空」に通じると清水さんは説く。

意味の定められていない外部の情報を人間が柔軟に受け取る、そして多様な解釈ができるように促す役目をしているというのである。
科学的に隅々まで計算された機能を持つようにつくられた近代建築の価値観は固定している。そこにこちら側から新しい意味や価値観を与えることはできない。人は参加できない。対象と自分が切り離されている。科学のとめどない発展に取り残される「私の心」という言い方もできると清水さんはいう。

「生命感覚をデザインする」を目指したガウディは、公園の要所に、あえて土くれを放置した。人々はその空白に働きかけ、自分の場所を意識し、形成し、世界に参加しているという真実感と温かさを感じることができた。それは写真を眺めて外側から世界を理解する方法では得られないものだ。ここに科学的手法の限界がある。

さて、屁理屈が続いたので、短くてわかりやすい環境問題の話で後半を締めくくろう。
「将来どんなに科学技術が発達しても」と清水さんは書いている。
「いったん絶滅した生物種をよみがえらすことができないし、地球の大気もいったん変質してしまうと2度と以前の状態に戻すことができない」
よく考えてみると当然のようにも思えてくるが、最初にこのくだりを読んだ時、ボクは目からウロコの気がした。
人間の科学って、そんなにちょろいものなのか!
 
現在、地球の生命圏では多くの種の動物の急激な絶滅が問題化している。これは特定の種の危機にとどまらない。人間を含めたもっと全体的な生命の安定性を危うくするのだ。「それなのになぜ人々は楽観的なのだろう」と清水さんは自問し、つぎのように自答している。

生物種の絶滅を伴う変化が、二度と元に戻らないということを忘れているからだ。生物の「種」が減っても、生物の「量」でカバーできると思っている。生命圏の状態の回復を生物の「量」と「エネルギー」の総生産量で測れると見誤っている。生物の種、つまり質は、「量・マス」では代用できないのだ。特定の種がいくら多くなっても、失われた種は戻らない。失われた大気・環境はどんな科学・技術をもってしても、回復できない。一度きりの私たちの環境なのだ。

ボクはうかつにも、将来科学がもっと発達すると、地球環境は科学の力で浄化される、と思っていた節がある。また、絶滅した生物にしても、環境が浄化されれば、また息を吹き返すとぼんやり考えていた。いったん死滅した生物種とは二度と会えないのか。みんな一期一会なのだなあ。
 二十年ほど前、故郷の小川に足を浸けるとメダカが群がってつつきにきた。いま、その小川にはメダカが一匹もみつからないという。変質した環境に死に絶えたのだろう。いつか、日本中の小川がこの小川のように変質してしまうことがあるのだろうか。(つづく)